「大丈夫ですか?」
顔を上げると、見たことのない男性が心配そうに立っていた。
「これ、使ってください」
今の自分の顔は、メイクも表情もぐちゃぐちゃだと思う。もしかしたら顔を上げた瞬間、驚いたかもしれない。それでも、男性はポケットから取り出したハンカチを差し出してくる。
「え……でも……」
「まだ、今日おろした新品なので、綺麗ですから」
男性の言葉で、自分を気遣ってくれているのがわかる。これ以上ここで問答しても仕方がないし、事実くるみは顔を拭くものを持っていない。男性からハンカチを借りると、相手は少し安堵したような表情に変わった。
「すみません、お見苦しいところを」
「いえ、そんな」
過呼吸のせいでうまく話せたかどうかはわからない。しかし会話が成立しているので伝わってはいるのだろう。
「連絡先、教えて下さい。お返ししますから」
「いえ、そんなの気にしないでください」
涙をふこうと広げた瞬間、とある老舗ブランドのロゴが目に入った。
(こんないいハンカチ……返さないわけにはいかない)
会場の方から大きな拍手が聞こえて、社長の挨拶が終わったことを知らせてくる。ここから自由になった客の誰かが、外へ出てくるかもしれない。くるみはすぐにここを去りたい気持ちにかられる。
「すみません、私ちょっとここにいられないので、連絡先だけ……」
相手はなにかを察したのか、ポケットから名刺を1枚取り出した。
「今日のことを思い出して苦痛になってしまうようなら、全然連絡しなくていいので」
「ありがとうございました、連絡します」
そう言ってくれる男性にくるみは頭を下げてから背を向ける。走り出してすぐに、背後のホールのドアが開き人々が出てきたざわめきの音がする。くるみは足早に玄関を出た。
次回更新は7月31日(木)、11時の予定です。