第一章 向日葵のように太陽に向かって

昭和二十二年の夏、福岡県の中心部、筑豊炭田が位置する町に、丸山重正と丸山嘉子の長女として生を受けた珠輝は、両眼の眼球を失っていた。重正と嘉子が従兄弟同士だったことから、珠輝の出産は親戚一同からの猛反対を受けていた。だから、心ない人々の差別にさらされることはやむを得ないとしても、親類からの言葉の暴力と、さらに両親からも虐待を受けて育った。

やがて、珠輝は教育を受けるため盲児童施設に入所し、そこから盲学校に通うことになった。彼女は周りの人々からの虐待から解放されることを期待していたが、彼女の境遇は変わらなかった。

珠輝が入学した盲学校には、小学生からの中高選考、さらに中途失明者を対象とした選考および二部の生徒を合わせると、二百五十人ほど在学していたが、全く明かりを持たない生徒は全体の十分の一にも満たなかった。全盲と半盲、両眼と一眼、失明と弱視など、障害の程度には個人差があるのだ。

クラスでも施設の居室でも、明かりを知らないのは珠輝一人のことが多かった。珠輝のような児童生徒は視力のある生徒と比較すれば全てにおいて動作も遅くなることから、よほど勘の鋭い者でない限り、職員らの対応は冷淡だった。

やがて十年の月日が流れ、珠輝が社会への第一歩を踏みだす年、昭和四十一年となった。

この年、庶民の間では「三種の神器」といって、カラーテレビ・クーラー・自家用車を家庭に持つことが理想とされた。

朝鮮戦争勃発以来、ガチャマン景気、神武景気、岩戸景気と続き、現在いざなぎ景気のまっただ中である。だというのに、それらの景気は丸山家を見向きもしなかった。

珠輝が出生当時、父重正はM炭鉱の職員として勤めていた。ところが、昭和二十六年、重正が人の借金の保証人になってからというもの、丸山家は未だに貧困の坩堝(るつぼ)から抜け出ることができなかった。

職も住居も失った重正一家に、珠輝の母嘉子の姉、大下典子の夫重義は、借家として買った家を重正一家に無償で提供してくれた。にもかかわらず、未だに一銭も渡そうとしない重正に業を煮やしていたのか、珠輝の伯母典子は、その憤りを珠輝に言葉の暴力として浴びせ続けた。

 

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