顔をしかめる哲也を見て男もおかしそうに笑った。店を出る頃には、階段を上がる足取りも覚束(おぼつか)なくなっている哲也を、寄り添った裕子が支えた。
「あんなチョビ髭にペコペコすんなよー」
「何よ、こんなに酔っ払っちゃって、まったくだらしないんだから。研究開発に行き詰まったからって、落ち込まないでくださいね」
そう言われた哲也の表情が一瞬、素面(しらふ)に戻る。裕子もそれを瞬時に捉えた。
「研究開発しかないんだよ、俺には」
「ごめんなさい。あの、送るよ……葛岡さん」
一緒にタクシーに乗ろうとする裕子を、
「今日は一人でいい……」と言って哲也は押し返した。
「しょうがないなあ。まったく」
呟きながら裕子は、哲也をタクシーに押し込んだ。時計は午前零時を回ろうとしている。
「心配しないでいいね~」とか「結局明日は勝つ~」とか、タクシーのラジオから流れてくる、アップテンポの歌が、やけに耳障りだった。
(心配しなくないよ、明日も勝たないよ……ったく……)
エアコンの風が、車のシートにまとわりついた煙草の臭いを増幅しているように感 じられ、我慢ができなくなってくる。
「……ここらへんでも……結構ですから」
口元に手を当てたまま、くぐもった声でそう言って千円札を差し出すと、運転手は気分が悪そうな哲也の状況を察し、慌てた様子で車を路肩に寄せ停車した。
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