【前回記事を読む】「もう白衣を着ることはない…」異動通知を受けた研究者が迎えた痛飲の夜、泥酔しきった彼のもとに元同僚が現れ…
第一幕 邂逅
一九九四年三月
靖国通り、両国橋の手前だった。両国三丁目のマンションまでは橋を渡ってもう少し歩かなくてはならない。哲也は釣銭を受け取らずにタクシーを降り、一人でふらふらと歩き出した。
(少し飲みすぎたな。頭が痛い。口が渇く……)
両国橋に取りつけられた照明がぼやけて見えるのは、あたりが霧雨に煙っているせいなのか、飲みすぎのせいなのかもわからない。
三月上旬だったが、寒さは感じなかった。
道端の自動販売機で冷たいお茶を買い、口に含むと、少し気分がすっきりしてくる。
それでも橋の右前方に見える老舗のししなべ屋の看板や、右後ろに見えるケチャップ会社の鮮やかに赤いネオンサインも、何だかぼやっとして揺らいでいる。
とぼとぼと両国橋を歩いて渡る、痩身で少しくたびれたジャケットにチノパン姿の哲也の後ろ姿は、ずいぶんと頼りなげに見えた。
百八十センチ近い長身で、鼻筋の通った顔にもかかわらず、あまり手をかけていないモッサリとした髪型。朝剃った髭はすでに青く目立って、ちょっと危なげで、三十四歳の哲也は疲れ果てた中年男のようにも見えた。
着るものやヘアスタイルにもっと気を遣ったらどうかと言ってくれる人も多くいた。あるいは哲也の風体(ふうてい)を見て、変人と天才は紙一重だなどと陰口を利く人がいるのもわかっていた。
(自分は天才でも紙一重などでもない。天才としか思えない優れた研究者を自分は何人も知っている。だが自分にはそこまでの才能なんてない。だからこそ風体なんぞに気をとられている暇などないと思って研究に没頭してきた。それなのに、こんな結果だなんて)