【前回記事を読む】「引き止めてはくれないんだね……」気づかないふりをしてきた自分の想いに、哲也が気づいた夜
第一幕 邂逅
一九九四年三月
白衣の腹のボタンがはじけそうに、でっぷりと太った身体を、所長室のプレジデントチェアに沈めて微動だにせず、目線をやや下に向け、ピクピクと頻回に瞬きを繰り返しながら、奥貫は言った。
「これ以上の予算は本社が認めない。ここまで来ての開発中断は本当に残念だ。だがインターフェロンの副作用を軽減しつつ相乗効果があるというキャッチの薬剤が、かえって肝機能を悪化させる副作用を出すようではまずい。今の会社の状況では止むを得ないだろう」
哲也は食い下がった。
「本社を説得してください。対処方法も見つけ出しました。副作用の発生確率だって低い。レバガードをインターフェロンに組み合わせることによって、肝炎を根治させることができる。副作用の確率をはるかに凌ぐメリットが期待できることは、はっきりとわかっているじゃないですか。このまま開発は続けるべきです」
おそらく、奥貫は哲也の意見を理解しているはずだ。俯いたまま、うんうんと頷き、しかし目は伏せたまま、慎重に言葉を選んでいる。
「君もわかっていると思うが、会社がこんな状態だ。経営陣は、特に会社のマイナスイメージとなる情報には敏感だ。医療をめぐる現在の状況も急速に変わってきている。医療訴訟の増加などから考えても、副作用での死亡例を出す前に、会社のイメージをこれ以上落とすリスクを避けたいという判断は間違いとは言えないだろう。それに……」
渋沢製薬は歴史と伝統を誇っていた老舗の中堅製薬会社だ。しかし同族経営の三代目社長が、銀座の超高級クラブのホステスに会社の金を貢ぎまくった醜聞は、特別背任にまで発展し世間の失笑を買った。
それだけでは終わらず、今度はトイレタリー部門の上層部の独占禁止法違反となる強引な取引が新聞にすっぱ抜かれ、三面記事、写真週刊誌、テレビのワイドショーネタを提供することとなった。