「永正三河の乱」といわれるこの戦いは、松平一族にとっては宗家の岩津城が落城するという重大な危機であった。
岩津城の援軍に安祥城を出陣した松平長親は、無事伊勢新九郎を撤退させ、今川氏の三河侵攻を失敗に終わらせた。
しかし、この戦いは宗家岩津松平家の著しい衰退をまねき、合戦で今川・北条勢を押し返した安祥城の松平長親を松平一族の惣領へと押し上げることになったが、すぐに家督を嫡男平信忠松(まつだいらのぶただ)に譲ったのである。明らかに隠居は早すぎる。
片山忠正は永正三年(一五〇六年)の合戦で松平長親に従い、今川・北条勢と槍を合わせて功名を立てたとある。
また、松平信忠は片山忠正に「十文字の持ち槍」を与えていることが分かる。片山忠正は長親に続いて松平信忠に奉公することになるが、この早期の家督相続は松平一族内部に波乱を呼び込むことになった。
それは松平信忠と片山忠正の身に降りかかる事態となった。
1 作者・成立期不祥。南北朝時代を舞台とした軍記物語。
2 懐良親王は、南朝の征西将軍宮として、九州における南朝方の全盛期を築いた。
3 片山家文書「覚」は、同一内容の記述を子孫が二度にわたり新たに書き写している。写真の文書は最古の「覚」。
4 『安祥城の研究』、中川 覚、一九九一年。同書では、安祥城(安城市)は畠山一族の和田親平が永享十二年(一四四〇年)築城。文明十一年(一四七九年)岩津城の松平宗家・松平信光が攻略。明応五年(一四九六年)安祥松平家として分出したとしている。