【前回記事を読む】時は明応、五百年前。三河の鷲塚村で西条吉良家に仕えた片山家は、数多の戦で名を挙げた。新田義貞公の家紋も掲げたその勇姿――

第一章 主君を求める武勇の片山氏

第一節 戦国時代の矢作川流域

第二項 松平長親に仕える片山忠正 (かたやまただまさ)

この片山親子は、元々は菊池の一族で肥後国(熊本)菊池の住人であった。菊池一族は、南北朝の争乱(一三三六年~一三九二年)では南朝(後醍醐天皇)側で、九州の地を中心に北朝(足利尊氏)側と激しく戦っていた。九州において争乱は長く継続され、菊池一族は勢力の拡大を目指していた。

『太平記』1には争乱における菊池氏の事績が多く書かれており、南朝側は勢力拡大のため国内各地に皇子を派遣したことが分かる。

九州へ向かったのは、わずか八才の懐良親王 (かねよししんのう)2であった。行き先は他でもない肥後(熊本県)の菊池城で、延元三年(一三三八年)秋のことであった。

北朝有利な争乱の中で、全国でもまた九州でも武将の多くが南朝側から北朝側へ寝返っていた。

その中にあって菊池氏は南北朝の合一まで戦い、菊池城は落ちてしまった。その後、一族の者は肥後八代(ひごやつしろ)に落ち延びていった。

南朝側勢力が強かった九州においても南朝側の瓦解を見逃すことはできない状況となった。

片山忠光・忠正親子は、正統菊池城最後の城主・菊池能運と不和になり、明応四年(一四九五年)二月、肥後国(熊本県)を立ち退き、近江国を経て三河国鷲塚村へ移り住んだことを伝えている。

戦国時代の三河国碧海郡大浜村 (へきかいぐんおおはまむら)(碧南市)や鷲塚村 (わしづかむら)(碧南市)はともに湊町として栄えていた。

また、西三河における真宗門徒の拠点のひとつである「鷲塚御坊」の存在が確認されている。鷲塚村を治めていた領主は、吉良義元(きらよしもと)であった。