【前回記事を読む】16歳で戦場に立ち、敵の首を取った少年武将——桶狭間の戦いに名を刻んだ水野太郎作清久と、丸根砦で散った片山勝高の真実
第二章 家康の自立と三河真宗門徒の蜂起
第一節 家康の三河支配への道のり
第一項 大高城からの撤退
水野信元は今川・松平勢と、村木砦攻めや石ケ瀬合戦で激しく戦ってきた1。ところが桶狭間では、敵将の今川義元が討たれる「まさか」という事態となった。そしてあろうことか、織田方・水野信元も「まさか」という信じがたい行動に出たのだ。
永禄三年(一五六〇年)五月十九日、松平元康は、今川義元の命により大高城に入っていた。大高城には今川義元討ち死にのうわさが入ったが、確実な情報ではなかった。元康は城を空けて退却し、もし義元討ち死にが噓であれば再び義元に合わせる顔がないと考えていた2。
その時、母の兄・水野信元は浅井道忠(あさいみちただ)という者を大高城へ送った。道忠は「義元公は今日昼頃、桶狭間にて討ち死にせられ駿河勢は総敗軍となり候、織田勢の軍勢いまだ道路を塞がざる前に、早く三州へ引き返すべし。すでに日暮れである。道案内は道忠が致す」との口上(こうじょう)であった。
水野信元と元康は、繰り返し争い互いに武器を取って戦う間柄だが、信元にとって元康は、妹於大の子ということから放置できず、かく密事を告げたのである。(『改正三河風土記』)
元康は、「今夜この城を退去するべきである。但し退去の事を聞き知って、敵どもが追ってくることもある。城中に立て籠っているように旗を立て並べ、篝火(かがりび)をより多く焼き、郷民に示すよう」と命じた。元康は諸士卒(しょしそつ)に向かい、案内者たる浅井道忠は長たいまつを馬上に捧げ持ち、分かれ道ごとに打ち振い、後に続く兵に教えるよう命じた。
また歩きの兵は、たいまつは必ず邪魔になるからと細かく命じ、旗本馬廻りは前後列を整え、三千余騎が合言葉を定めた。これは夜中に敵と遭遇した場合、同士討ちを避けるためであった。
難所では先手に進む騎士一人が長たいまつを捧げ持ち難所の辺りに馬を控え、ここに難所があること、あるいは堀、沼、川があることを教え、大勢が一人も過ちなく池鯉鮒(ちりふ)(知立)の駅に出ることができた。