ところが、この場所に刈谷辺りの百姓千人の大集団が落人(おちびと)を討ち取ろうと道を遮っていた。百姓集団の長・上田半六(うえだはんろく)が一番に進み出て「夜中にこの道を通りかかるは何人か、是(これ)は一揆の大将上田半六なるぞ、一人も通すまい」と高声で名乗った。

浅井道忠は兼ねてから半六とは知り合いであった。幸いかなと道忠は駆け寄り、たいまつを振り上げ「ここにいるのは半六ではないか、かく申すは水野殿家人浅井道忠である。殿の仰せを承り、織田殿の加勢に赴き桶狭間一戦に義元を討取り、只今また、三州勢の落人を追討せよとの仰せにて道を急ぐぞ、卒爾(そつじ)3するな」と呼ばれれば、

半六これを聞き「ここへ来たのは味方である。過ちをするな」と下知(げち)をしたので、百姓どもは道を開け通した。是より後は、道を妨げるものなく岡崎へ帰ることができた。

今川が入れ置いていた三浦・上野・飯尾は、義元の討ち死にに驚き逃げ去っていた。元康は「人が捨てた城ならば、拾い取るべし」と岡崎城へ入った。(『改正三河風土記』)

『三河物語』は、松平元康が岡崎へ帰った後の動きが早かったことを伝えている。

五月二十三日、元康は岡崎城に入るとその後、織田勢の攻撃に備え、信長方の挙母城(ころもじょう)・梅坪城(うめつぼじょう)・沓掛城(くつかけじょう)を攻撃し、その城下を焼いた。元康は、織田信長出勢(しゅっせい)を耳にすると決戦は避けて、岡崎城へ撤兵していた。(『三河物語』)

織田信長の桶狭間合戦での勝利は華々しく知られるが、水野信元は、浅井道忠を大高城へ送り「かく密事を告げ」三河勢を警護し岡崎まで無事に帰したのである。桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると、今川方は総崩れを始めている。

織田方に包囲された大高城の松平勢撤退を江戸時代の歴史書は、詳細にその様子を伝えている。大高城から松平元康と松平勢が撤退できたことは、戦国時代の終焉と近世社会への歴史的転換点のひとつとして意義を持つことになった。


1『三河物語』、大久保忠教、江戸時代初期。

2『改正三河後風土記』「神君大高城御退却之事」、成島司直、江戸時代後期。

3 軽率な行動をすることの意味。

 

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