【前回記事を読む】武士の歴史はお墓や古文書だけじゃない。お寺の過去帳が語る記録―信光寺に伝わる記録を元に、知られざる戦国の物語をたどる―

第一章 主君を求める武勇の片山氏

第二節 三河へ嫁いだ水野忠政の娘たち

第二項 水野忠政と信元

水野忠政の娘・於大は享禄元年(一五二八年)に生まれている。於大は政略結婚ともいえるかたちで、天文十年(一五四一年)十六歳の松平広忠のもとに十四歳で嫁いだ。そして翌天文十一年(一五四二年)、竹千代注1)を出産した。

ところが竹千代を出産した翌年の天文十二年(一五四三年)に実家の父・忠政が五十一歳で亡くなると、松平家と水野家の関係は大きく変わった。父忠政は織田信長の父・織田信秀の西三河進出に協力しつつも、一方で松平家とのつながりで水野家や領地の保全を図ろうとしていた。

しかし、忠政から刈谷城を継いだ水野信元は違っていた。信元は知多半島北部一帯を治める上で、弱体化した松平家と組むより攻勢的な織田家との同盟関係が必要と判断したのである。

松平広忠は水野氏の外交方針転換に対し、於大を離別することで、友好関係の解消を示した。天文十三年(一五四四年)於大は、岡崎城に竹千代を残し、刈谷へ送り返された。

その後、於大は刈谷城外の椎の木屋敷に三年ほど居住している。

於大の兄信元は、織田家との同盟関係を明らかにすると知多半島南下を開始している。

天文十二年(一五四三年)には、榎本氏が支配していた成岩城を攻略した。水野軍と榎本軍は成岩城手前の神戸川(こうどがわ)を挟んで激しく戦った。