第三節 今川・松平軍と織田・水野軍の争い

第一項 石ケ瀬合戦(いしがせかっせん)の水野忠重(みずのただしげ)

今川・松平勢と織田・水野勢の対立は、領地が接する松平家と水野家の間で繰り返された。水野勝成は覚書として記している。

刈谷の重原という所を家康公が攻められて、付城注3)を取られてしまった。その城の跡は今もある。家康公は駿河方で水野信元公は信長様方にて、叔父(信元)と甥(家康)で取り合いをたびたびしていた。

その頃のことであるが、緒川の石ケ瀬というところへ家康公が攻めて来られた。石ケ瀬合戦にて水野忠重は、一番槍をあわせ、突き合いとなり、左の脇つぼを突いた。ただのひと槍で突き伏せたのであった。

首を取る段になるところで、高木主水殿が「兄の藤次に首を取らせてやってくれ」というので、藤次殿に取るように伝え、藤次殿が取った。信長様は、そのいきさつを聞かれると、兄の藤次が首を取ることより、弟の忠重のしたことは、親のようなことをいたしたのだと感心してくださった。水野に忠重ありと信長様に名を覚えていただくことができた。 (『水野勝成覚書』)

決定的な勝敗は桶狭間合戦であるが、桶狭間合戦以前に石ケ瀬川を挟んで水野氏と松平氏は繰り返し戦っていた。石ケ瀬川は境川、衣浦に流れ込む川で、現在も大府市と東浦町を分けている河川である。

水野忠政の末弟・忠重は兄信元に従い、他の兄弟とともに永禄元年(一五五八年)この石ケ瀬合戦で初陣を飾っている。時に十八歳であった。九男忠重と兄信元は二十歳離れていた。

水野勝成は、父忠重がこの合戦で信長から賞賛されたという逸話を書き残した。忠重は一番槍の手柄を立て、敵の首を取った後、二つ目の敵の首を取れる時あえて取らず、三歳兄である八男の忠分 (ただわけ)に手柄を譲ったのである。

後に、この時のいきさつを知った信長は大いに賞賛し、忠重は「おやけ」だ(頼りがいがある・親のような行動だ)と感心した。


注1 称名寺十五代住職上人は松平家ゆかりの人で、松平広忠の甥にあたるとされる。天文十二年(一五四三年)に称名寺で連歌の会が行われ、広忠は「神々のながきうき世を守るかな」に対して「巡りは広き園の竹千代」という句をつけた。この句から家康の幼名を「竹千代」としたとされる。称名寺は、東海地方における時宗の一拠点であった。

注2 『碧南市史』第1巻、碧南市史編纂委員会、一九五八年。

注3 敵城を攻める時それに相対して築く城のこと。

 

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