城主榎本了圓(えのもとりょうえん)は、もともとは時宗の僧で、里人に念仏を広めることが目的であったが、いつしか成岩城主となっていた人物である。落城に際しては、落ち延びたと伝えられている。

天文十六年(一五四七年)水野信元は、まだ十九歳の於大を阿久比(あぐい)の久松俊勝(ひさまつとしかつ)に嫁がせ、久松家を取り込んでいった。於大は、三人の男子と二人の女子を産んでいる。於大が聡明な母であったことや、離れて暮らす竹千代に繰り返し日用品や手紙を送り続けたことが知られている。

戦国時代の尾張知多半島では、大野・内海の佐治氏、河和の戸田氏など独立性の強い豪族がいたが、信元は織田家を後ろ盾に戦いによる征服、婚姻による和睦を駆使し、知多半島の実質的覇者に成長していった。

織田家においても信元の協力を得られることから三河への侵攻を強めた。同年、十四歳になった織田信長は、三河大浜へ初陣を試みている。

吉法師殿(きっぽうしどの)(信長)は天文十五年(一五四六年)十三歳にて(中略)元服、織田三郎信長と名乗られることとなり、翌年信長公は、御武者始めとして初出陣、平手政秀(ひらてまさひで)が後見役である。

信長公は 紅筋(くれないすじ)の頭巾、馬乗り羽織、馬鎧 (うまよろい)といういでたちで、駿河方から軍兵を入れておいた三河の吉良大浜へ手勢をつかわし、あちらこちらに放火して、その日は野営。次の日、那古野(なごの)に帰陣なさった。(『信長公記』)

松平広忠は大浜湊、海岸防備のため大浜城(羽城)を築き、長田重元(おさだしげもと)に守らせていた。この武者始めで信長は大浜湊を攻め寺や民家を焼いた。

対する長田重元は、部下を励まし巧みに防いだため、初陣の目的を果たすほどの戦果はなかったと大浜村では伝承されている注2)

水野信元が織田家と同盟関係になったことで、松平広忠は、今川義元(駿河)の庇護がなければ岡崎城主に留まれない状況となった。嫡男の竹千代(家康)を今川家の人質に差し出し、今川氏の支えを必要としていた。

天文十八年(一五四九年)岡崎城主の広忠が、わずか二十四歳で亡くなると、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。駿府に送られた竹千代は、今川義元のもとで元服し、松平元康と名乗った。