【前回記事を読む】信長が称賛した、戦国武将の行動は?…敵の首を獲るところで、あえて自分では獲らず…
第一章 主君を求める武勇の片山氏
第三節 今川・松平軍と織田・水野軍の争い
第一項 石ケ瀬合戦(いしがせかっせん)の水野忠重(みずのただしげ)
太田牛一も同様の事柄を『信長公記』に記していた。
第二項 桶狭間合戦の水野太郎作清久(みずのたろうさくきよひさ)
桶狭間合戦の織田方軍勢に水野太郎作清久(国重)がいた。江戸時代に湯浅常山(ゆあさじょうざん)が著した『常山紀談(じょうざんきだん)』では、次のように太郎作の活躍が語られている。
桶はざま合戦今川義元討死の事
「我が軍は山かげより斬りかかり、速攻によって勝敗を決するつもりである」。そう信長が大声で命令すると、配下の将兵たちは皆、競い合って勇み立った。
そして目立たぬように旗印をしまい込み、山かげより桶狭間に向かった。今川義元は駿州(駿河国)の先陣が勝利したことを喜び、酒盛りをしていた。
ちょうどそのときに、空がいきなり曇り、ひどい夕立になり、物の怪か何かが乗り移ったように見えるほど風や雷が激しくなったので、信長の兵が迫ってくる物音もかき消され、今川軍は不意の攻撃にあわてるばかりである。
水野太郎作清久が一番首を取った。今川義元の輿(こし)を信長は見つけて、「敵の本陣に間違いない」と、追い立て、追い立て、突撃を繰り返せば、今川義元も逃げずに引き返して防ぎ戦う。
そこを服部小平太(はっとりこへいた)が義元を槍で突き、毛利新助(もうりしんすけ)がその首を討ち取った。(『常山紀談』)
永禄三年(一五六〇年)五月、今川義元は松平勢を先鋒に二万五千ともいわれる軍勢を率い上洛を試みた。尾張に侵攻を試みる今川・松平勢に対し、信長は知多の領主水野氏を支援して、大高城周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで今川勢に備えた。
五月十九日、今川・松平勢は丸根砦・鷲津砦を陥落させ、今川義元の本隊は翌二十日桶狭間山に布陣し休息をした昼頃、視界を妨げるほどの豪雨が降ったため、兵を広く分散していたところを織田軍に急襲されたことが明らかとなっている。
『常山紀談』は、江戸時代中頃、巷(ちまた)で流布していた言い伝えを集めた軍記物である。この中の今川義元討死の場面で、水野太郎作は清久の名で先の内容で登場している。
水野太郎作清久は、先の略系図(水野家・片山家)では清久という人物である。清久は水野太郎作正重の別名で、桶狭間合戦時は十六歳であった。