第三項 桶狭間合戦丸根砦攻めと松平方の片山勝高 (かたやまかつたか)

天文年間(一五三二年~一五五五年)初期に、片山遵通は再び松平家への奉公が始まっていた。水野忠政の娘・於亀を妻に迎え、鷲塚村間無山(碧南市笹山町)に屋敷を構えていた。信光寺が作成した片山家過去帳の写しによれば、於亀の夫・遵通は永禄三年(一五六〇年)二月二十五日に亡くなっている。桶狭間合戦の三ケ月ほど前のことである。

死因は病死と思われる。於亀は、子どもの遵智(のぶとも)と残されることになった。片山家は遵通の弟・勝高が十一代を継ぎ、松平元康(家康)配下松平勢として桶狭間合戦・丸根砦攻めに臨んでいた。

十一代又三郎勝高(またさぶろうかつたか) 家康公ニに仕、永禄三年(一五六〇年)庚申(かのえさる)五月十九日尾州丸根合戦ニ城将(じょうしょう)佐久間大学(さくまだいがく)与(くみし)戦討取候所(いくさうちとりそうろうところ)、深手(ふかで)戦場(せんじょう)ニ死申候(しにもうしそうろう)(『片山家文書』「覚」)

桶狭間本戦前の丸根砦の戦いは、今川義元から先陣を命じられる三河武士にとっても、織田方先鋒となる城主佐久間盛重(さくまもりしげ)(大学)以下、砦死守(とりでししゅ)を命じられた武士にとっても凄惨な戦いとなった。

丸根砦を守る織田方の悲劇は、三百名から四百名はいたとされる将兵が敗走をすることなく討死にを選択したことであった。

これは攻める三河武士にとっても悲劇であった。『松平記』1には「丸根の城に佐久間大学と云いしを元康衆先手にて攻落、然れども岡崎随一の兵あまた討死にしける」とある。

また、『改正三河後風土記』2は、古くから松平家へ仕えてきた多くの武士がこの丸根砦攻めで犠牲となったことを指摘している。片山勝高も戦場で討ち死にをしている。

片山家では、丸根砦攻めで亡くなった勝高は武勇の人であったことが代々語り継がれた。勝高没後三〇〇回忌となる安政六年(一八五九年)、鷲塚村3を治めていた大浜陣屋沼津藩士であり儒学者でもある岩城魁(いわきかい)は、片山又三郎勝高を偲ぶ漢詩を書き上げ、時の片山家当主八次郎に渡している。


1 阿部定次、成立年未詳。天文四年(一五三五年)〜天正七年(一五七九年)までの主君家康にまつわる出来事が記述されている。

2 成島司直、天保十三年(一八四二年)『三河後風土記』を校訂増補した書籍。

3 碧海郡鷲塚村は、戦国期より入江中央の湊として発展しており、幕府成立後は西尾藩領、幕府領、岡崎藩領の時代を経て、明和六年(一七六九年)より水野忠友が若年寄に伴う加増で大浜藩が成立し、その支配村となった。

 

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