【前回の記事を読む】橋を渡ろうする母子から通行料を取ろうと、男が子供に手を伸ばした瞬間二人の間に割って入ったのは…
第一章 帰巣(きそう)
─応化橋─
驚いて仰け反ったのは、真っ黒い風貌と大柄な体軀のせいだけではなかった。男から発する異様な『気』に圧倒されたからといっていい。
微動だにしないその姿は、何かとてつもないものを内在しているような威圧感さえ漂わせている。事実、権藤一味の誰もが威圧され、後ずさりしていた。正確にいうと近寄れないのである。
「た、辰兄い、こいつは何者で?」
小男の田甕の安が恐る恐る近づいた。
「お、おめえは何者だ! どこの組の者だ。おれは権藤家のどぶねずみの辰吉っちゅう三下だ!」
辰吉は、男が渡世人風の身なりをしていたからか、他の組の者と思ったようである。万一、どこぞの親分であった場合はただでは済まないからである。
しかし、男は「まだ童女だ。勘弁してやっておくんなせい」と再び低い声でくり返した。
安が小走りに男の周りを用心深く見回した。しばらくすると安堵(あんど)した顔つきで、
「辰兄い、こいつ渡世人じゃありませんぜ。脇差を差してねえですぜ。丸腰だあ」なかば呆れた口調で辰吉に目をやった。
「はあ? 丸腰だと。なんでえ、おどかしやがって。町人か百姓風情がおれらに喧嘩を売るたあ、いい度胸だ。おう、熊、かわいがってやれ!」
辰吉が言うや否や、先ほどの熊男がのしりのしりと前に出てきた。近づくにつれ、その巨漢が山のようにみえる。
熊男は唸(うな)り声を上げ、岩のような臀部を、思いっきり濡れ鴉の男の背中にどっしんと落とした。
大きな衝撃が橋全体を包み込んだ。四つん這いになっていた濡れ鴉の男は地面に押し潰された。関節のきしむ音がした。
「う、ぐう……」
臼のような巨漢は恐ろしい凶器であった。熊男は尻餅をつくように男の背中へ、何度も何度も全体重を落とし続けた。橋全体が揺れるほどの衝撃が響いた。
意地悪そうな顔で辰吉が、「おい、今度は背中じゃなくて、頭をやれ。おれは弱い奴には執念深いんだぜ。へへへへっ」
熊男は尻を引きずるようにして男の首元に座った。そしてまた腰を落としはじめた。
周りにはすでに無数の人だかりが出来ていた。どすん、どすん、という鈍い音に周りの野次馬たちは眉をしかめながらも、権藤一味の悪行に為す術がなかった。