【前回記事を読む】【大塩平八郎の乱】叛乱の残党数名が乗った小舟。その中には坊主に変装した平八郎もいて…「全員、腹を切って果てよう」

鼠たちのカクメイ

江戸城西の丸にある老中部屋では水野忠邦と矢部定謙が額を突き合わせていた。ふたりの間にあるのは「国家之儀ニ付申上候」と表書きされた建議書だった。田沼意義に渡したものとは別に、決起の前日平八郎が飛脚を使って送ったものだ。だがこの建議書も塾内の造反者によって飛脚から取り上げられ、いま忠邦のもとにあるのだった。

矢部が大塩の建議書を読み終えたようだ。矢部は平八郎が与力だった頃の直接の上司である。だがこの書状の中では、その上司さえも違法無尽の容疑者として告発してあった。

「これは建議ではなく、告発状ですな」

平八郎の元上司はそう言って、書状と苦い顔を忠邦に返した。

「かようなものが、万一にも公方様の目に留まれば」

「厄介至極。改革の芽を摘み取りかねんでしょうな」

忠邦は書状を封書に戻し、廊下に控えている家臣に差し出した。

「これをどこぞに捨てて参れ」

家臣が書状を取りかけたところで、忠邦はこう言い直した。

「いや。捨てたことが大塩たちに伝わるように、捨てて参れ」

後日箱根の関所付近で、この建議書が捨てられているのが発見された。現代では「飛脚が金目のものと勘違いして開封したものの、ただの文書だったため道中に放り捨てた」というのが歴史上の定説になっている。では、当時の飛脚は常に郵便物を改めていたのか? 内容も読めないのに捨てるのか? 極めて不自然な定説だ。

私論だがこれ見よがしに道端に捨てられていたことを考えると、これは忠邦ら幕閣から潜伏中の平八郎たちに向けたメッセージと見た方がいいだろう。即ち、聞く耳など持たぬ、という。

またも余談だが、そもそもこの大塩の乱という事件そのものが、明治時代から終戦まで歴史の教科書から削除されたという事実がある。どの時代の体制にとっても、内部の叛乱という不都合な真実は隠蔽や改ざんの対象だったのだろう。

民主主義を標榜する現代にあっても私たちは、官僚たちが作成する公式文書が真っ黒に塗られたり、平気で改ざんされていくのを見てきた。公式な「歴史」というものは、「時代」の真実とはかけ離れたものなのだ、と諦めざるを得ない。