愛宕神社にまつわる、こんな縁起(えんぎ)だった。本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる。そのとき家康は、わずかな供を従えただけで遊山の最中。この絶体絶命のピンチを救ったのが伊賀の服部半蔵 (はっとりはんぞう)と甲賀の多羅尾家(たらおけ)だった。
半蔵は伊賀と甲賀の忍者を糾合 (きゅうごう)して伊賀を越え、伊勢から海路で岡崎に逃げ込む。そのおりに多羅尾家から寄贈されたのが、くだんの勝軍地蔵だった。慶長八年(一六〇三年)、家康は勝軍地蔵菩薩を勧請 (かんじょう)し、防火の総鎮守として江戸愛宕神社を創建する。
「もう一つ、奇想天外、奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な伝説が残っているの」。
ヒデちゃん伝承の奇策とは、一体の石仏が身代わりとなって家康を救った話だ。主役は滋賀県甲賀市信楽町 (しがらきちょう)多羅尾にある浄顕寺(じょうけんじ)の「十王石仏 (じゅうおうせきぶつ)」。十王なのに九体しか現存していない。
「一体の石仏は家康の伊賀越えのときに、家康の代わりに籠(かご)に乗せたんだってよ」
明智光秀は本能寺に向かうにあたり京都の愛宕神社に参籠 (さんろう)している。光秀は大戦 (おおいくさ)を前に、本尊だった「勝軍地蔵菩薩」に必勝を祈願したのかもしれない。京都の勝軍地蔵菩薩と、多羅尾家から家康に託された勝軍地蔵の目に、その後の歴史絵巻はどう映っていたのかな、と諭が考えていると……。