「愛宕神社は、徳川時代に江戸の町を火事から守る防火防災の守護神を祀(まつ)っているの。きっと、戦火から守ってくれているはず。でもね。光秀が京都の愛宕神社で三回も、おみくじを引いたって言われているでしょう? それで戦(いくさ)に負けたんじゃないかって」
「あ、その話、お父さんと九州旅行に行ったときに、聞いたことがある。おみくじは一回でいいんだって」
「でしょう? だからあたしは、おみくじは引かない。そんで、お守りを渡したの、ヒデちゃんに」。
松子はお守り袋に李白の「烏夜啼(うやてい)」の詩をひそかにしのばせた。夕方ねぐらに帰る烏が鳴くときに、遠征した夫を悲しそうに思い出しては、孤独な部屋のなかで雨のように涙を流す、恋人を思う女性の情を歌った七言古詩。ある故事をふまえて作った詩だそうだ。
役人となって遠い場所に赴き帰ってこない夫に妻は錦(にしき)を織って送った。その中に詩が織り込まれている。
「回文詩っていうの。縦から読んでも横から読んでも意味が通じる文章なんだって」
「たけやぶやけた、みたいなものだね? あっ! 防火の守護神だから、焼けちゃったら困るね」
「そう。あんた、うまいことを言うわね。当時、夫には別の女(ヒト)がいたんだって。それが、妻の回文詩に誠意を感じて、妻のもとへ戻ってきたというじゃないの。いい話でしょ?」と聞いておきながら、間髪 (かんはつ)を入れず続ける。
「なんだか、あたし、古代ギリシアの王妃ペネロペイアみたいよ。彼女はね、トロイア戦争に行ったきり帰らないオデュッセウスを二十年も待ちわびるの。夫の帰還を信じて機織 (はたおり)に精を出す。これもあたしと似ているでしょ? 機織りや工芸の女神、ローマ神話でいうとミネルヴァ、ギリシャ神話だとアテネともお仲間よ」。
【イチオシ記事】お互いパートナーがいたけれど出会ってビビッと来ちゃった2人。そして妊娠発覚!