【前回の記事を読む】40の頃、カトリックの洗礼を受けた。「妻のような女が私に与えられるのなら、神は存在する」と思ったから。
第六章 2016年
1月2日(土)
神聖な話題になったオナラとうんこ
朝、台所へ下りてみると、良子がにっこりした。「カタチのいいのが出た」と言った。「バナナ1本分。昨日はこれぐらいやった」と親指を立てた。
「出たか!」
私は、プッとやった。夜明けの祝砲だ。
良子は口を尖らせたが目は笑っていた。良子はうんこの話などする女ではなかった。
最も大切なものが何であるか、私たちには分かった。うんこが出、オナラが出る。我が家にとって現在、それが最大の心の安らぎである。
1月3日(日)
コオ来る
暖冬である。本当に寒いと思った日が一日もない。昼間ホームセンターへ行ったが、途中、車の窓を少し開けて走った。
夕刻、コオが来た。料理人で夜の仕事である。
朝の早い私とは活動時間がずれている。休日も私やあい子と異なる。電話では常時話しているが実際に顔を合わせるのは2月に一度くらいである。
生みの母親の血を引いて“男前”であると私も思う。色白で細身、背も高く、目が優しい。私が一番心配していたのは「女」の問題であった。女を漁ろうと思えば、それのできる雰囲気を持っていた。
女に泣きつかれて往生する父親の私を想像していた。ところが事態はまったく逆に進み、30を過ぎても女の気配がなかった。料理人になって家を出たが、結婚する様子が見えない。
女の問題を心配したのに、実際は女の問題がないことを心配した。心配以上に不安だった。「お前、勃つのか」と聞いたら、「心配するな。びんびんだ」と答えた。