諭が父胖(ゆたか)の知人を通じて信濃高校や早大付のビデオを集めていること、それを分析するチーフに選ばれて克明な対戦プランを練っていることを報告する。うん、うんと聞いていた祖父が、六十年前の話を始めた。
第二次世界大戦中の、いわゆる「最後の早慶戦」の応援席に祖父はいたという。初耳だった。自らも野球少年だった祖父は陸軍士官学校出身で、早稲田大学入学は戦争が終わって復員後だったはず。
しばらく、うとうととしていた祖父が懸命に記憶を呼び覚まそうとしている。昭和十八年(一九四三年)十月十六日正午、戸塚球場。慶応大学野球部で活躍している旧制駿河中学のチームメイトの応援に駆け付けた。黒一色の学生服が球場を埋め尽くす。ちらほらと、ハンカチを握りしめる女子学生の姿もある。
野球が「敵性スポーツ」だとして、文部省が六大学野球連盟を解散して公式戦が開けないなか、部員の熱意と両校関係者の尽力でようやく実現した非公式試合だった。しかも学徒出陣は目前に迫っている。
「これがその友人にとって最後の早慶戦だった。それだけじゃない。最後の試合でもあったんだ。その親友の名前がどうしても思い出せない」。歯がゆさからか、苦悩と疲労の色がにじむ。昔から記憶力抜群だったのにと、訝(いぶか)しみながら「どっちが勝ったの?」と聞こうとした諭は、祖父が深い眠りに入ったことが分かった。
その足で歩いて十五分ほどの三田病院に向かった諭は、父方の大伯母佐多(さだ)松子(まつこ)を見舞う。「あんた、忙しいのによく来てくれたわね。甲子園おめでとう。調子はどう?」。下町言葉まるだしで機関銃のようによくしゃべる。
一回戦に勝てば、早稲田と当たるかもしれないと告げると、「あらまあ、実現するといいわね。私も若い時分によく早慶戦に行ったのよ。あんた、知らないでしょうけど、最後の早慶戦は一生、忘れられないわよ」。小柄で黒顔(ガングロ)、白髪痩身ながら七十九歳とは思えない若やいだ表情が浮かんだ。
「戦争中、昭和十八年の早慶戦でしょ? さっき、ちょうど俊英じいさんとその話をしてきたところなんだ。おじいさんも親友が出場していたから応援に駆け付けたらしいよ」。
二人とも戸塚球場の同じスタンドにいたのか。これは奇遇だ。「お目当ての選手がいたんじゃない?」
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