【前回の記事を読む】勤務最終日に従業員からのサプライズ送別会! 各セクションで握手やハグ、中にはツーショット写真まで求められて…?!

第三章 還暦前の初転職

私にとってのインドネシア勤務

私にとって、インドネシアで勤務していた四年半は、日本国内で仕事をしていたころに比べると、ずいぶんすっきりとした気持ちで仕事に打ち込むことができた。

原因の一つは現地採用の一年ごとの契約工場長で、地位が上がることも下がることもなく、成果が出なければ辞めるだけという明快なポジションゆえ、自分の信念で仕事ができたからではないかと思う。

二番目に日本国内での営業のように顧客からの理不尽な要求がなかったことである。当然、インドネシアでも値下げ要求などはあったが、日本国内のようにバイヤーがサプライヤーに対して優位であると意識を持っていて、コンプライアンス上不可能な要求を吹っかけてきたり、あるいは、勤務時間外にまで呼び出されたりするようなことはなかった。

三番目は優秀で明るい社員、さらには幸運にも恵まれて、厳しい環境の中でも業績が順調に推移してきたこと、また、日本の本社も理解があり、我々を支援してくれたことも大きい。

私の勤めていた工場は、先輩たちがつくり上げた風土なのであろうが、他の日系企業もうらやむくらい、素直で明るくモチベーションも高く、優秀な社員が多かった。また、社員の定着率も極めて高かった。

その中でも特に優秀であったのが生産管理のリーダーであった。彼は頭が良く人望もあり、周りの従業員からも一目置かれていた。印刷業はほとんどが受注生産で、納期が指定されているうえに、製造工程の異なる製品を同時に数十種類並行して生産しなければならない。どの機械をいつ稼働させ、どのように人員配置をするのがコストミニマムかという複雑な方程式を解くような業務である。

また、彼は独学で英語をマスターし、北米の医薬品会社から業務改善指導を受ける際のインド人との電話会議もほぼ完璧に理解していて、私は聴き取れなかったところを彼に教えてもらうことがあった。

私は彼とよく工場の問題点や将来のことを一緒に話し合ったが、彼が中心となって従業員をまとめてくれた。急激な賃上げも「長期的にはインドネシアにとって良くない」と言っており、労働組合が結成されそうになった時も彼が急先鋒の従業員に「組合をつくっても意味がない」と言って説得してくれた。

私が退職後、後任の工場長は彼を副工場長に昇格させてくれた。二〇一九年十二月、久しぶりに工場を訪問した時、元気そうな彼の笑顔を見ることができ、これからの益々の活躍を期待し、激励した。

しかし、世界中で猛威をふるった新型コロナは、二〇二一年七月からインドネシアでも感染爆発を起こした。インドネシアでは連日五万人の感染者、二千人に迫る死者が出て、私も気になっていた。八月三日、後任の工場長と従業員の一人から私にSNSで、ショッキングな内容の連絡があった。

まだ、四十代前半の彼が新型コロナの犠牲者となったのである。これからの活躍が楽しみであったのに、二度と彼の活躍する姿を見ることができなくなってしまった。

そして、私の後任の工場長も二〇二一年十二月、心筋梗塞で倒れ、寝たきりの生活を送っていたが、二〇二三年四月帰らぬ人となった。彼は私より一歳年下であった。