その頃東京の叔父滔天の家には、中国革命家・黄興の長男黄一欧2)が、滔天の長男龍介、次男震作と同じ年頃同士として、兄弟のように扱われ同居していた。

東京で結成され中国同盟会の若手連中も、代わるがわる叔父の家を訪れていた。その中には二十一歳で日本に留学し、法政大学などで学んだ汪兆銘や、日本士官学校に留学していた蒋介石もいた。

汪兆銘は留学中に孫文の革命思想に触れ、興仲会に入会していたが、のちに中国同盟会結成に伴いその会員となり、孫文の信頼を得、中国同盟会評議部長に抜擢される。

一方蒋介石は、二十四歳で日本士官学校(振武学校と称した)を卒業して、新潟県の高田野砲連隊に、陸軍砲兵二等兵として配属された。

彼も日本留学中、二十一歳で中国同盟会に入党した。ハワイから東京に帰ってきた孫文と会ったのは二十三歳の時である。二人を引き合わせたのは陳其美(ちんきび)3)であった。この二人の会見は、中国国民革命史上の記念すべき事柄であろう。

孫文は汪兆銘と蒋介石の二人に、中国革命の後継者として多大の信頼を寄せることになる。二人が相争う運命を背負っていようとは、彼の描いた未来図には全くなかった。

その他にも広東(カントン)から日本に留学し、のちに汪兆銘と結婚する、マレーの華僑の娘陳璧君も、革命同盟会員の女生徒を連れて、時折文京区小石川原町の叔父宅を訪問していた。

叔父の家では、腕白盛りの龍介や震作が、黄一欧を加えて、専(もっぱ)ら剣道の練習で庭一杯あばれ廻っていた。男勝りの陳璧君もその仲間になって、よく日本の剣道を楽しんだという。

当時の陳璧君の年は二十歳前後ではなかったろうか? 彼女は、その頃日本でもそろそろ芽を出していた、モダンガールという種族の女性であったと想像される。話を本筋に戻すことにする。


1)宮崎滔天(みやざきとうてん)の実姉・冨。

2)日本に留学、帰国して清朝打倒を目指し革命集団「華興会」を組織し、長沙(ちょうさ)蜂起を画策するも発覚し日本に亡命。滔天の計らいで孫文と会見。孫文とともに中国同盟会を組織、辛亥革命に貢献。世凱袁(えんせいがい)に対抗し第二革命を起こすも失敗し、アメリカへ。帰国後上海で病死。

3)清末の革命家。一九〇六年(明治三十九年)日本に留学。中国同盟会に入会し蒋介石と親交を結ぶ。上海を中心に活動。第二革命失敗後日本に亡命。帰国後反袁工作中に暗殺される。

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