子供たちへの誕生日のプレゼントももちろん送ってこないし、こちらからも一切連絡をしなかったが、連絡も来なかった。
両親の仕事を継いでいる姉に子供たちを預かってもらい仕事の面接を受けて帰ると、その姉から「実家に帰って事務の仕事をしてほしい」と言われた。
反対されて結婚したわたしが、のこのこと実家に帰るわけにはいかない。自分の力で生きていかなくては申し訳が立たない。それに離婚するときに、夫から「実家の仕事には入るな」と、固く言われていたので簡単に実家に帰ることができない。
そのことを告げると、「幼子を2人抱えて生きて行こうとしているあなたに別れた後のことまでも指図するの!? それにはい! はい!と言っているあなたもあなたよ!
子供たちのために何を選ぶことが一番良い選択なのか考えなさい。どこまで親不孝すれば気が済むの。甘えることも親孝行なのよ! この子たちのためにも帰ってきなさい!」と、優しかった姉が強い口調で言った時には、「ホンマや」と、かたくなな自分にハッ!とした。
しかし地元に戻ると、昭和50年代後半頃の離婚に対する世間の目は冷たく、針の筵(むしろ)だった。極力周りに飲み込まれないようにと信念を持って前だけを見て生きて行こうと必死だった。
それから人工透析になるまでの20数年は実家の事務の仕事をして、1歳半と5歳の子供たちの保育園のお迎えは母や義祖母の手を借りた。
子供たちが元気な時は母や義祖母に頼めたが、熱が出て保育園から連絡が来て早退をしなければならない時などはすごく肩身の狭い思いをしながら保育園に迎えに走った。
勤務先が身内とはいえ女性社員は姉とわたしだけで、姉には子供がいなかったので、小さい子供がいて働くことへの理解は殆どなかった。それに他の社員の手前、厳しい言葉をかけられた。今のように子育てをしながら働く環境は全然整っていなかった時代なので「早く大きくなぁれ」と、どれだけ願った事だったろうか。
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