【まえがき】

昭和・平成・令和へと年号が移った今、昭和二桁生まれのわたしには、想像以上の時代の変化に驚きと感動でいっぱいである。

東京・下町に生まれ、大の祭り好きで神輿を担ぎ、手古舞で町内を練り歩く、物おじしない子供だった。

叔父からは、消極的な家族たちの中の突然変異だと言われていた。だが、争いごとは好きではなく、自分の気持ちを抑えてでも言い争いは避けていた。

昭和・平成・令和の時代背景の大きな変化を生きてきて、生で見て体験している自分自身が、まるでタイムマシーンで行き来してきたような夢のような気分になる。

そう!缶蹴りをしている頃のことが、遠い昔のことなのに映像ではっきりと浮かんでくるのだ。道路や公園で紙芝居を見ながら駄菓子を食べている光景が頭の中にはっきりと浮かんで目の前にいるような錯覚になる。

幼少の頃は、のどかで時間の流れがゆっくりと進んでいる時代だった。しかし自分の人生は、二度の結婚と離婚。養育費なし。必死で働いて、三人の子供たちにも淋しい思いをさせながら何とか育ててきた。

出産時の病気がきっかけとなり52歳で人工透析導入になったときは、やっとこれから少しは自分の時間を持てるかなと思っていた矢先のことだった。

さすがにこの時は、何か大きな見えない力のあるものに、自分は試されているのだろうか?と考えたりした。命の存続は何をおいても第一優先で選択の余地など残されていなかった。

このことは、どれだけ考え悩んでも腎臓は治らない。今、自分にできることは現実を「受け入れること」だった。「考えようによっては、ここまで腎臓が持ってくれたことをありがたい」と思うように切り替えた。

23歳で長男が生まれてから末の子が成人する55歳までは走り続けよう!そのあとは少しゆっくりと自分のために時間を使おうと考えていた。そんな末の子が成人するまであとひと踏ん張りの時の透析導入だった。

もうすぐ70歳を迎える今、人生を振り返ると、戦争の爪痕が残っている20年代生まれの子供時代、二度の結婚と離婚、子育て、治らない病気と何かと波乱の多い人生だった。そして人生は「選択」の連続。