【ある日曜日】

中学でバレーボール部に入部してからは家にいることも少なく、外へと気持ちを向けていき、一緒に遊ぶ時間も少なくなっていった。それにどちらかというと姉妹というより、姉は親の位置に近い感じでわたしに接していた。

考えるより先に行動をしてしまうわたしは、よく姉から悟されていた。姉が結婚をして家を出るまでは何でも姉に相談をしていた。洋服を買うのでさえ、一緒に行ってもらって姉が「似合うよ」と言った服だけ買ったというほどだった。

今でも忘れられない姉の一言がある。

あまりにも放任主義というか無関心の両親に反抗心が湧いてきた時に

「お父さんとお母さんに反抗して、不良になって困らせてやる!」

と言った時

「不良にでも何にでもなればいいよ。でも知ってる?不良になって一番損するのは誰か……  あんただよ!!」

背筋が「ぞっ!!」としたことを今でも忘れない。

わたしが1歳くらいの時に祖父は再婚をして義祖母もわたしたちと同居した。この頃は同居が当たり前でどの家族も大家族だった。わたしが祖父の離婚と再婚のことを知ったのは小学校の高学年だったと思う。

実の祖母と思っていた祖母とは血のつながりがないと知った時には、何故かそれほど動揺しなかった。ずっと可愛がってくれていたので、これからも変わらず祖母に甘えられると思ったからだ。この時の冷静な自分に少し驚いた記憶がある。                

我が家の家業は、のちに万年筆が廃れて文具や雑貨の問屋業に変わっていく。小学校5年の時に東京五輪が開催されて、チケットを持っている家の子は授業中でも早退をしていき羨ましかった。 

もっぱらわたしは白黒テレビにかじりついて見ていた。この時の鬼の大松監督率いる女子バレーボールが金メダルを取って、わたし自身、中学2年から短大までバレーボールを続けるきっかけとなった。

高校3年の時にキャプテンとなり、夏の都大会で優勝し、よっしゃ~全国大会じゃ~と思ったら、9人制での優勝だったので全国大会は今年からなくなりました。と、と、と。

この時は残念だったが、バレーボールが好きで短大卒業までの7年間続けることができた。

「ひいひいおじいちゃん(高祖父)は万年筆を作って売っていたんだね」

「そうよ。それに大家族で従業員さんもいたから賑やかだったわよ」   

結局、万年筆は需要が減って文具と雑貨の問屋に移行していった。

「それにしてもばぁばが学生時代の7年間もバレーボールをしていたなんて意外」

「そうねぇ~。よくがんばったなぁって思うよ。その時の仲間とは今でも旅行に行ったりしているから、共に苦しい時代を過ごした仲間とは良い関係が続くのかな」

「わたしもバドミントンがんばるね! ばぁば」

「応援しているね!」