その選択をもし間違えたと思った時は決して「あの人が言ったから」と、人のせいにしないこと!!

「悲観しなければ道は開ける!」身をもって体感してきた。

今、結婚、出産、離婚、病気のことなどで迷いを抱えている方の道しるべに少しでもなれたらと思い、実は苦手な執筆することに挑戦しようと一念発起した。どうぞ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

【ある日曜日】

我が家には、大祖母・祖父・義祖母・父の弟・住み込みの従業員さんが居て、狭いところで暮らしていた。いつも賑やかだったが、しかしちょっと複雑な家族だった。

祖父は父が20歳くらいの頃、父の12歳下の弟がまだ小学生のときに離婚をしていて祖母がひとり家を出た。そして父と母が結婚して姉が生まれ、姉が3歳半の頃にわたしが生まれた。

母が姉を妊娠した頃は、戦後の食糧難で食べるものも少なく、姉は極小未熟児で生まれてきた。病院ではなく自宅でお産婆さんに来てもらっての出産だったため、体温の低下している姉を一晩中、お産婆さんが自分の肌で温めて生きられたと聞いた。

小さく生まれてきた姉は、母乳を吸う力も弱くて泣いてばかり、若かった母は不安で「この子と一緒に死んでしまいたい」と思ったこともあったと聞いたことがある。そんな姉が可愛くて可愛くて父も母も溺愛してしまったと言っていた。

姉が女の子だったので2人目は跡継ぎの男の子を父は切望していた。わたしが母のお腹の中にいた時にとてもよく動いていたので「今度は男の子だね。これで女の子ならびっくりだわ」と、期待していたらしい。

生まれた時に女の子だったので、父と祖父は「やけ酒」を飲んだと母が笑いながら言っていた。子供ながらにもちょっとショックだった。

歓迎されずにガッカリされてたんだ……。

母は気軽な気持ちで言っていたと思うが、そういえば父も母もわたしには興味がなさそうな気がしていた。殆ど話しかけてもこないし、学校のことも友達のことも何も聞いてこなかった。

仕事場と自宅が一緒なので仕事をしている後姿を見て育った感じだった。義祖母がよく遊んでくれた。小学校の頃は雨が降ると家で姉とおままごとをして遊んだ。姉は家で遊ぶことが好きで、公園や外遊びを殆どしなかった。

わたしは外遊びが好きだったので姉と遊ぶより友達と公園や道路で遊ぶことが多かった。母からは、一度外へ出たらなかなか帰ってこない「てっぽう玉だね」とよく言われていた。

じっとしていられる「静」の姉と、じっとしていられない「動」の妹。

対照的な姉妹だった。

 

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