【前回記事を読む】やっとの思いで到着した家は一階が津波の被害で泥や大木で覆われている。息子はそこには居なかった

一人十色

三日後に中学校に行ってみると、水はまだ周囲を覆っているが、比較的校舎には入りやすくなっている。職員室前の掲示板の前で数日振りに息子と出会えた。息子は何でもない様子だったが、私の方は号泣してしまった。最後に人前で号泣したのは何年前だろう。学校側も最後の避難生徒が親に迎えに来てもらって安堵したようだった。

あとで息子から聞いた話だが、家政婦さんの家まで歩いて向かっている時に、引率した先生から「お父さん、大丈夫だと思うけど、ある程度の覚悟はしておきなさい」と言われたそうだ。これが震災での優しく且つ厳しい現実の言葉だ、そう思った。

我が家もそうであるが、町の復旧には相当な時間を費やした。電車も不通となり、通学できないことから進学校のために家を売り払い進学先のある市内のマンションに転居した。家ごと津波に流された家がたくさんあったので需要が多く、すぐに売れた。

自家用車は職場で津波に流され、新しく買った老朽化著しい中古車での片道二時間を超える遠距離通勤となり、その後は転属願を提出してマンションの近くに配属された。

家も職場も息子の進学も落ち着いた頃、不眠など体調に変化が生じ、内科医に行ったところ心療内科を紹介され、受診したら「燃え尽き症候群」と診断された。

震災後の割と落ち着いた年末に多い症状だと言われた。転属したばかりの職場だったが三年で早期退職を決断した、五十歳の時である。そのあとは一年毎の契約社員として継続採用となる。収入はかなり減るが心の負担も減る。時間および心の余裕ができたので何かしてみたかった。仕事と子育てと病気の人生だったので。

思いついたのが子どもの頃から好きだったテレビドラマや映画などを「創作」することである。寝る前には必ず物語を創作していたことを思い出した、「作っていた」というより勝手に脳が話を創作するのだ、夢を見るように。時間のある限りひとり芝居や映画や演劇など観覧し、参考にして物語を書き留めていた。亡き妻と一緒に見に行った演劇や映画は今の私の財産だ。