一人十色
うららかな春の香りがする三月の終わりに人事異動の内示があった。別のところの職場で働いている彼女と秋に結婚するため、異動と併せて引っ越すことを考えていた。
今のアパートは二人では狭いからだ。お互い三月の決算や書類整理でなかなか物件を見に行く余裕が無いため時間を合わせるのが難しく、仕方が無いので私一人でアパート探しをすることにした。
住宅仲介業者に紹介された数件の中にとてもいい物件があったが、そこは男子を入居させない、と大家さんから言われていたらしく、結婚することを説明して時間が無いので強引に契約を交わした。
彼女の方も夏の終わりころから少しずつ荷物を入れ始めた。秋からの結婚生活や式などの準備がてんこ盛りの忙しい時に北海道から電話が鳴る。お袋からだった。これ幸いと結婚式の準備の手伝いをしてほしかったからこっちに観光に来ないか?と体よく誘った。
無事に式が終わり、新婚旅行の計画は妻にすべてを任せた。妻は欧羅巴の美術巡りをすることが夢だったらしく、ルーブル美術館や大英博物館などに付き合わされた。美術にはあまり興味が無かったが欧羅巴の美術には驚愕し、途中から妻よりはしゃいでいたらしかった。
妻は結婚するまで実家から出たことが無いので何もできず、料理や洗濯や掃除はほとんど私がやっていた。今の時代は当たり前だが、三十年前はたぶん稀であろう。自炊生活は十年になる私がやった方が早いのと、妻の仕事の方が忙しかったので自然にそうなった。
そんな生活の中で、突然事件が発生。その日は妻も私も仕事で疲れていたので夕食後早めに就寝することになり、十時には微睡み始めたとき、妻が「何か外で変なもの音がしなかった?」と聞いてきた。
私は眠かったので何も無いよと適当にあしらってしまった。この言動が間違いだった。どのくらい経った後だろう、外から怒鳴り声が聞こえてくる。大家さんの争う声が響き渡る。布団から飛び起きて一階のベランダから慌てて飛び出したところ、元自衛隊員の大家さんが何かと格闘して捕まえようとしていた。
加勢のためこちらも飛びかかろうとしたときに「危ない、コイツ包丁持っている」との叫び声で私は一瞬止まった、と同時にソイツは私の方に包丁を向けて突進してきた、威嚇のための突進ではない。
大家さんが体当たりしたおかげでソイツは逆方向に逃げて行った。もし、大家さんが体当たりしなければ、もし数秒遅れていたら私はこの原稿を書いていないだろう。
そのあとは事情聴取や現場検証で一睡もできず、そのまま職場に向かった。その数日後ソイツは逮捕されたが、新聞で連続強姦魔※だと知って妻と背筋が凍ったのを今でも覚えている。