【前回記事を読む】三歳の息子が「ママにしかられるから……」隠したシーツ――育児を任せきりにした自分を猛省したが手遅れだった
一人十色
職場で業者と年度末の会計のことや来年度のことなどを電話で忙しく且つ和やかに相談していると、一瞬にして大きく揺れ始めた。
激しい揺れの中、一旦受話器を置くとコピー機や書架などが次々に倒れて、今まで聞いたことの無いサイレンが職場に鳴り響いている。立ち上がろうとしても立てない。机の下にも入れない。机にしがみつくのがやっとで、三分弱の出来事が永遠に感じた。
揺れが終わった後、取り急ぎ鳴りやまないサイレンを停止させる操作を行おうとしたが、聴いたことの無い音響なのでどうするのか誰も知らなかった。電話がまだ使えたので警備会社に停止方法の確認を行ったが、返ってきた答えは「止まらないので線をハサミで切ってくれ」とのことだった。
何をどうすればいいのか皆目見当がつかない状態なので同僚たちも呆然と佇んでいた。そのあとは無我夢中でこの急場を凌ぐことを優先して、職場内に歩く道を作るため、倒れているものなどを片づけた。
外で揺れに遭遇した人たちが次々に職場に避難してくる。安全が確保されるまで職員が避難してきた方々の対応をしていた。
数十分後に「津波発生!」の防災行政無線が轟いた。須臾に周囲は津波に覆われた。どんどん一階に津波が浸水して来たが、津波の襲来前に全員を二階に避難させておいたため怪我人などが出ず、九死に一生だった。その日から職場は一時的な災害避難所となる。
支援物資や海外からの協力を得て災害避難所はどうにか運営ができて一安心だった、しかし周囲の水が引かない事には外にも出られず、気がかりなのは息子のことである。携帯電話もバッテリーが無くなり電気やガスや水道も不通であるため、外部との連絡もできない。
卒業式の前の日なので友人と出かけるとは聞いていたが、その友人宅は海の近くであることは承知していた。家に居てくれたらまだいいが友人宅では、と不安が脳裏によぎるのであった。
交代で家の様子を見に行くことになり、私は二週間ぶりに家に戻ることができた。自家用車は津波に持って行かれたので歩くしかなく、十キロの道をひたすら歩いた。