蘇我氏は他の豪族と結託して山背の上宮王家を急襲する。山背ら一族は法隆寺に立てこもって戦い、そこで敵方の大将の一人である土師(はじの)娑婆(さば)を戦死させている。
山背は一旦は生駒山に逃れ四天王寺に向かおうとするが、行く手を阻まれることになる。東国に逃れ再起を図りましょうという部下の進言があったが、「慈悲喜捨」の考えを説き、自ら進んで斑鳩(いかるが)に戻り、斑鳩寺で最期を迎えたと伝えられている。
「慈悲喜捨」というのは、自ら一人が犠牲になれば、巻き添えで死ぬ人はそれだけ減るという聖徳太子が説いた教えである。しかし、犠牲は彼一人では済まなかった。山背とその妻、そして八人の子供全員が犠牲となった。
宮家一家全員殺害事件が大化改新の二年前に起きたという捉え方ではなく、この衝撃的な事件が大化改新を呼び込んだと考えるのが自然である。宮家が違うとは言え、激震は中大兄と大海人(天武)の心を揺さぶり、彼らの怒りは頂点に達したと思われる。
天皇の後継候補でもあった山背を葬り去ることにより、自動的に皇位継承者が決まり、権力も資産も蘇我氏に移行するような状況がつくられた。
もちろん、それを由々しきことと考える人たちもいた。過去には、蘇我氏によって崇峻天皇が殺害されている。二度目の謀殺である。そして、その度ごとに蘇我氏は財産を増やし権力を拡大させている。事態をそのまま許せば、下手をすると皇統そのものが奪われるかもしれないとの危機感が増す。
反蘇我の中心に中大兄が入り、中臣鎌足、蘇我石川麻呂らが協力する。入鹿を大極殿において誅戮(ちゅうりく)し、その翌日に蝦夷は自邸で自尽(じじん)する。蘇我氏が滅亡した翌日に皇極天皇の弟の軽皇子が三十六代孝徳天皇として即位し、中大兄が皇太子となる新政権が発足する。