第一章  『古事記』の時代背景を探る

動乱の時代の中『古事記』編纂を思い立つ

当時は天智天皇の治世であるが、防衛のため九州に水城(みずき)を設置し、対馬など六か所に山城をつくり、対馬など三か所に防人を置いた。

"敵"を瀬戸内海に引き入れて迎え撃つつもりだったのだろう。そのため都を内陸の近江大津宮に移している(六六七年)。慌てながらも真剣に対応している。新羅はその後朝鮮半島を統一しているので、唐と新羅の圧力を感じての日々であったと思われる。遣唐使も中断される。

目を国内に転じると、当時は天皇が権力闘争をしていた時代であり、朝廷周辺で血生臭い事件が相次ぐ。有力豪族の蘇我氏と物部氏との対立そして抗争の中で物部氏が滅亡する。蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺されている。

衝撃的だったのは、蘇我入鹿(いるか)による山背大兄王一族(十人)殺害事件ではないだろうか。宮家が一瞬にして消滅してしまった。

山背大兄は入鹿とは従妹(いとこ)関係に当たり、聖徳太子の嫡男であった。聡明で大変評判も良く、次の天皇と目されていた人物である。入鹿は古人大兄(ふるひとおおえ)皇子を擁立しようと考えていたので、山背が障害となると考えての狼藉であった。中大兄も大海人も当時は十代であるが、どうしてこんなことが起きるのかと怒りと共に問題意識を膨らませていったと思う。

蘇我氏の横暴という言葉で表現されることがあるが、宿敵物部氏を滅ぼし、一つの宮家を消滅させた。皇統そのものが取って代わられる危険性も出てきた。

その危機を感じた中大兄はその2年後に蘇我蝦夷(えみし)・入鹿を打ち倒すことになる。世に言う大化の改新である。

中大兄は天皇に権力を集中させる方向で国づくりを考えていく。その後の大きな動きは、壬申の乱であろう。天智天皇亡き後の皇位継承をめぐって、弟の大海人皇子と天智の嫡男の大友皇子が争った事変である。

大海人が勝利をし、飛鳥浄御原宮で即位をして天武天皇となる。天武は兄とは違った問題意識のもと国づくりを考えていく。そして、探し当てた解決策を『古事記』の中に遺すことを考えたのである。