【前回の記事を読む】蘇我氏の“横暴”? その実態は、血生臭い事件の数々…天皇の暗殺、一族(十人)殺害事件。宿敵物部氏と宮家を滅ぼして…

第一章  『古事記』の時代背景を探る

義憤が引き起こした大化改新

我が物顏の振る舞いに対して、山背の妻が「天に二つの日無く、国に二の王無し」と言ったという。つまり、国に二人の王はいらないという意味であるが、この言葉が入鹿の反発を買うと同時に大化改新のスローガンとなっていく。

皇極が女帝ということもあり、持統の時の失敗を繰り返さないためにも、早くに皇嗣を決めておいた方が良いという話になる。

古人大兄と山背大兄が候補としてあがり、山背に人望が集まるようになる。そのタイミングで蝦夷が病気で公務ができなくなり、入鹿に大臣の位を譲る。その入鹿が古人を次期の天皇として考えるようになることは前述した。

古人は舒明天皇と蝦夷の姉との間の子であり、山背は蝦夷の妹の子である。二人とも入鹿からすれば従妹にあたり親族で身内であるが、権力欲と所領欲を満たすために山背の襲撃を考える。

『上宮聖徳法王帝説』によると、聖徳太子は四天王寺、法隆寺、中宮寺など七寺を建てたとされる。当時の寺は寺領を持ち、特に四天王寺と法隆寺は広大な寺領を所有していた。物部氏は蘇我氏に滅ぼされるが、蘇我氏側に付いた聖徳太子はその所領の半分を四天王寺領にしたと言われている。

上宮王家そのものを討ち滅ぼせば、そういった財産をすべて手に入れることができるし、自分の推した人間を天皇にすることができるという一挙両得の恐ろしいことを考えたのであろう。