皇位継承をめぐる争いの時代

前項で足早に壬申の乱まで概観したが、少し時間を前に戻して、大化改新がどのような状況の中で起きたのかを確認したいと思う。なぜ、そこに戻る必要があるのか。皇位継承が争いの種となっているが、皇統争いが根底にあるからである。

中大兄と大海人は天皇家の一員として、皇統を維持したいと思っていたはずだが、自分たちはまだ十代で力がない。そのジレンマの中でどのように行動し、それがどのような形で引き継がれたのか。客観的なものを手掛かりにしながら、彼らの心情を推し量りたいと思う。

六二二年に聖徳太子(厩戸皇子)が四十代後半という予想より早い薨去(こうきょ)が皇位継承問題に影を落とすことになる。

太子は三十一代用明天皇の皇子であり、馬子の娘を妃としていたので、血統的にも彼が一つの「重し」になっていたのは間違いない。「明確な国家意識を持っていた」(渡部昇一『日本の歴史①古代篇』WAC、二〇一〇年)人物であり、隋との対等外交を模索しつつ冠位十二階という能力別人材登用システムを導入した。

そんなこともあり、聖徳太子の治世の三十年間(五九三~六二二)は皇族内の争いも豪族の反乱もなかった。まさに「和」の時代であった。

彼が歴史の舞台から去ると、急に朝廷周辺の雲行きが怪しくなる。去ったその年に新羅をめぐって朝廷内が二つに分かれ、翌年には推古天皇と蘇我馬子が葛城県(あがた)の領有権をめぐって対立している。

さらに、皇嗣(こうし)、つまり次の天皇を誰にするかで、田村皇子を支持する豪族と山背大兄を支持する豪族に分かれてしまい、お互いどちらかに決しかねる状況が生まれたのである。推古は崩御前日にその二人を病床に呼んだという記録(「推古紀」)があるものの、結局決まらないうちにこの世を去る。このことが後々に禍を生む。

その時点で、田村皇子は四十三歳、山背大兄は十五~二十歳位であっただろうと言われている。天皇の年齢については三十歳以上という不文律があったのと、有力豪族の蘇我蝦夷が田村皇子を推したこともあり、結局彼が舒明天皇(三十四代)として即位することとなる。ただ、これで万事決着とはならない。

即位したものの四十代後半で崩御してしまう(六四一年)。長男の中大兄はまだ年齢的に十代の半ばで若いということで、舒明天皇の皇后が皇極天皇(三十五代)として即位する。

そして、この頃から蘇我氏が皇統について露骨に容喙(ようかい)し始め、尊大に振る舞い始める。『日本書紀』の記録によると、天皇の特権とされた佾八(やつら)の舞を蘇我蝦夷が仕切ったり、陵(墓)を造成したりしている。陵というのは、天皇家だけに許された名称だったのである。

  

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