「せやしね、家具をどけてしもたら万にひとつはようなるかもっていう一縷の望みもあきらめて、あの子を見捨てたって言うようなもんと違う? 思うんやけどね、部屋をこのまま今まで通りにしとくんが一番かもしれへんで。そしたらグレゴールもあたしらのとこに戻ってくれたときに、なんも変わってへんのを見てこれまでのことをスッと忘れられるんちゃうかしら」

母親がこう話すんを聞いてグレゴールは思い知った。誰とじかに人間様の言葉を交わすこともなく家族だけに囲まれた単調な生活を二か月も続けとるうちに、おれの頭はきっとどないかなったんや。

他に説明のしようがないで、部屋をカラッポのガランドウにしてほしいと真剣に思うやなんて。おれは本気で願うとったんか、あったかい、先祖伝来の家具で気持ちよう整った部屋をほら穴にしてまいたいと? 

そうなったら気が向くままの自由自在に這い回れんのは確かやけど、人間として生きた過去をすぐさま何から何まで忘れることにもなんねんで? 危うくそれを忘れるとこやった。久しぶりに聞いたおかんの声がガツンと思い出させてくれたわ。

取っ払ってええもんなんかあれへん。何もかも残しとかんと。家具があることでおれが受けてる恩恵は絶対に必要や。家具が邪魔でアホみたいに這いずり回ることができんでも、それはデメリットやのうて大きなメリットなんや。

ところが妹はあいにく違う意見やった。まんざら根拠のないことでもないけど、グレゴールのことで話し合うとなると妹は事情通きどりで両親に異を唱えるんが常やった。

   

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

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