第一章 昭和時代、平成時代の思い出
話の時代は少し戻り昭和60年の頃。数年前から入退院を繰り返していた父。母親が自営業を切り盛りしつつ、私は鍵っ子になり平日は塾通いと習い事中心の生活に変わり始めていました。
周りの友達も中学進学に向けて塾通いを始めているようで、放課後の少しの時間は校庭で走り回り遊ぶ時間はあるものの、外遊びをする時間が少し減り始めていった時期でした。
父親は入院を拒み自宅療養、寝たきり状態になりました。私は塾へ通うようになり他校の友達も増え外の世界が楽しくなり、まさか父がそれほど早くに亡くなるとは思わずに毎日楽しく、日々は流れていきました。
日に日に自己呼吸が難しくなり自宅に酸素吸入器が導入されると電気代が大幅に上がる事態に陥りました。酸素吸入量を上げるとブレーカーが落ちることもよく発生するようになりました。
最初は落ちたブレーカーを上げる作業が怖かった私もレバーを上げれば通電する仕組みを不思議に思いながら身体介助など父の介護を手伝いました。
学校から帰宅すると、数件お隣の奥さんから、「おとうさん、救急車で運ばれたわよ!」と伝えられました。
もう3回目の入院。あの病院のあのフロア。すべてを知ったつもりで父の入院する病室へ行くと、廊下の突き当りの一番奥の一人部屋。
入口には非常階段を示す緑色のネオンが病室入口を照らし嫌な予感がするも、病室のドアを開けると思いのほか父は元気で、「おう、よく来たな!塾の帰りか?」と優しい笑顔で迎えてくれました。
それからは塾が終わるとそのまま電車で片道30分程度かかる病院へお見舞いに行くようになりました。夜の緊急出入口を抜け病院の中へ。暗く静まる院内も父親に会える嬉しさが勝っていて怖いとは思いませんでした。
「おう、よく来たな! 夜ご飯まだ食べてないだろう。俺の夜ご飯食え」と病院食をまったく口にしていない状態で私に差し出してくれる父。
育ち盛り。何も考えていない幼い私。遠慮なくいただき、お腹を満たし、仕事帰りに病室へ立ち寄る母が来るまで父親との時間を歓談して過ごしました。
夜は肌寒く、「おう、靴脱いで足をこの布団の中に入れたらどうだ」とベッドの足元に私の足を入れるとなんだか自宅に一緒にいるような安心感と安らぎ。
そして母が仕事を終え、病室に来て「じゃぁ、また明日来るね~」とお互いが笑顔で手を振りあい、その日は3度「またね~」と振り返り別れました。
翌日、学校から帰ると普段泣くことのない母が泣いていました。
「さっき病院から電話があって、お父さん昏睡状態になっているって。だから今日はお見舞いには行かないで」と母からお見舞いを止められました。