したがってSTEM の論理的な側面と、Aアートの直感的な側面を両立する塩あん梅ばい、レシピの加減が様々に行われる活動を、幼稚園・保育所から高校までの教育課程で繰り返し展開することで、教科の枠を超えた学習が展開できると考えるのです。
このように考えてくると、「STEAM」という名称も、実は再考した方がよいのかもしれません。論理と直感が STEM とA(アート) だとするならば(もちろんそればかりではありませんが)、「STEM-A」とか「A-STEM」という具合です。
本書では直感を大切にして活動のベースに Aアートを置きますので、「STEM/A」というのも考えられます(このことに関連しては〈2-4〉で詳述します)。
名称のことはさておき、筆者は「直感」から出発したり常に「直感」で確認したりしながら分析的に追究・理解していく活動を目指すことにします。
我が国には、日本の誇るべき伝統文化というAアート、また、世界でも高く評価される職人芸という至高のエンジニアリングE があります2。
それらを包含したSTEAM教育はよい「見方・考え方」になりそうです。「見方・考え方」は、各教科等に留まらず、例えば STEAM教育を行うなら「STEAMの『見方・考え方』」があると考えたいところです。
Aアートが組み込まれて以降の「見方・考え方」については、STEM と Aアートとを組み合わせたという発想のせいか、あまり指摘されていないように思われます。
しかし、これでは限界があると考えます。本当の意味で混然一体となっていないからです。分離量3的な足し算から脱却して、連続量4的な捉え方をしていく必要があると考えます。
「欲しい」とか「面白い」「希少性」といった「意味がある」というものを追求・追究する過程で我々は様々な問題にぶつかりますが、それを解決していくことが創造性と重なります。
そして、達成に至れば、理屈では語れない喜びや満足感5、快感に浸ることができます。それが Aアートを含む STEAM 教育のもつ可能性と考えることにしたいと思います。
1 子どもたちに、「リコーダー(縦笛)なんか吹けなくたって生きていけるよ。何の役に立つの ? どうして音楽なんか勉強しなくちゃいけないの ?」と言われた、という話を現場の先生から聞きます。確かにごく一部の方を除いて、生きていくために直接的にリコーダーが必要になることはなく、ほぼ正論であるといえます。
2 例えば、法隆寺は世界最古の木造建築といわれますが、そこには驚くべきほどの設計・施工上の配慮がなされており、これはまさにAアートとエンジニアリングEとが体現されているといえます。
3 「枚」「個」といった、区切りのある量。子どもにとっては、例えば「たこやき 2 分の1 個」といった場合、「どちらにタコが入るか」とか、「1/2 人」といった場合、「人間を半分にしたら死んでしまう」といった問題が発生する場合があります。割り算の学習等では留意が必要であるといえます。
4 分離量とは反対に、「L(リットル)」「g(グラム)」といった、切り分けても、合わせれば、また一つのものに戻るような量。
5 フレデリック・ハーズバーグの二要因理論と関係がありそうです。「満足」と「不満足」は別次元にあって、不満足の原因をどんどん排除していっても、それは不満足でなくなるだけで、満足には至らないというのです。不満足、すなわち不具合を解消すれば便利になる、あるいは成績も上がるわけですが、そのことと満足(幸福感とでもいえそうです)とは異なる可能性があります。このことは、従来の教科教育における実感の薄さ(〈2-1〉で後述)と関係があるかもしれません。
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