其の参
[二]
骸骨は知らなかったのだが、鎮守の森を挟んで西側に一軒の割烹旅館があった。岬には国道から二手に分かれた道があり、右は骸骨のいる神社への小径、左は知る人ぞ知る割烹旅館すぎ乃への簡易舗装路となっていたのである。
その夜すぎ乃では父親の源造が忙しく調理場で包丁を使っていた。妻の京子と姉娘の洋子は和服に身を包んでいそいそと客室に料理を運んでいた。
和美は一人居間で楽器を玩んでいた。今夜も何組か客があり、彼女だけがぽつんと取り残された形となっていた。何となく不機嫌そうに見えるのは、先程洋子が思いもしないことを耳打ちしたからだった。
「ねえ和美ちゃん、夏休みで帰ったからといって気をゆるめちゃダメよ。変な人がうろついているらしいからね」
「変なってどんな人?」
「昨日の人かもよ、とにかく知らない人に気を許しちゃダメよ」
洋子は変なとか昨日というところを妙に強調した。そんなやり取りを両親は怪訝な面持ちで聞いていたが、あえて口出しはしなかった。
和美は久し振りで家に戻ったのに、端からそんなことを言われて面白くなかった。でも姉の言うことにも一理はあると思っていた。あの小径は地元の人くらいしか行き来しなかったのだ。
そこから磯浜に下っても魚が釣れる訳でもなかったし、海水浴が出来る訳でもなかった。だから骸骨がいたのは不自然だった。まるで世間の目から逃れようとしているみたいだったのだ。そうは思うのだけれど、やはり悪い人とは思えなかった。
むしろやさしい人だった。そして上手くは言えないけれど、気の毒な人、守って上げなければ駄目な人という気がしていた。普段は仲のよい姉妹だったのだが、骸骨に会うことは内緒にしておこうかなと密かに考えたのである。
次の日も朝から蝉の声が喧しかった。振り仰ぐ空が眩しかった。骸骨は海の見渡せる松の根元に佇んでいた。ここに居座るつもりは少しもないのだが、やはり立ち去り難かった。何故そう思うのか判らなかったが、あの少女に会いたかった。もっと色々な話をしてみたかった。「また明日」と言った明るい声が耳に残っていた。
「待テヨ‥‥」
骸骨は思わず呟いた。あの少女は人気のない所を探して楽器の練習に来ていたらしかった。ここに自分がいることなど予想もしなかったに相違ない。だから本当は怖かったのだけれど、勤めて明るく振舞っていたのではないのか。
そうだ、こんな所にいて悪い人間に見つかったら、それこそ何をされるか知れたものでない。用心深さが肝要なのだ。それならもうここへ来るはずがない。
「いやイヤ‥‥」
今度はかぶりを振った。もしかすると姉が両親に話したかも知れない。それなら今度こそ人々に取り囲まれることになるのではなかろうか。大勢の人に捉われて縛り上げられる自分の姿が見えるかのような気がした。