寂しいことだが、仕方がなかった。沢村家の葉山の別荘での合宿はキャプテンの坂本が中心になって、僕ら五人組に加え、何人かメンバーが増えていた。時々は顧問の谷本先生も参加するようになった。
「いくらなんでも保護者不在というわけにはいかないからな」
谷本先生は一応監督だったが、野球の経験も知識もなく、教えてくれることはなかったのだが、すべて手弁当で面倒を見てくれていたので、本当に有難かった。しかも教師になる前に大型免許をとっていて、遠地の強豪校と練習試合をするときは、レンタカーで僕らを送迎してくれた。
チームを指揮し、鼓舞していたのはキャプテンの坂本だった。坂本の家は八百屋の家業があり、ときには家業を手伝いながら、かつ弟妹の面倒を見ながらも、限られた時間の中で練習を引っ張り、チームの尊敬を集めていた。
僕のような一人っ子で共働き夫婦の元で育った身からは、想像も出来ないたいへんさだったと思う。あまり話したがらなかったが、聞けば父親は持病がある人で、母を支えるためにも坂本は空いた時間には家業の手伝いもこなしていた、いわば苦労人であった。
それに加えて主将ということで、僕は副主将として坂本が抜けなければならないときはカバーするよう心掛けた。とはいえ、チームの中心は戦力としては英児、精神的には坂本であった。
3年になった5月、とうとう中学野球最後の地区大会が始まった。
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