僕は翌月から週に1回は塾通いをするようになった。野球部との両立はけっこうきつくて、授業中よく居眠りをして怒られた。でも、毎日が充実していた。成績も徐々に上がってきた。
英児はすでに学年トップクラスの成績を叩き出していたが、僕もだんだんと成績上位者に顔を出せるようになってきた。
「これなら、希望している県立高校には入れるかもしれない」
真紀さんも誉めてくれた。
「太郎君、すごいじゃない。この前の中間試験、クラスで10番以内に入るなんて」
「いや、真紀さんに比べたら全然下じゃないか。なんとか都内の私大は狙える県立高校には入りたいんだ」
神奈川県で学費が私立よりは安い県立校で成績優秀者を集めるところはいくつかあったが、僕は現実的にそれら名門に入学することは無理だと分かっており、県立なら自宅から通える日吉台がターゲットになった。神奈川県横浜市では中堅クラスで、成績上位者は六大学クラスへ進学していたから、僕の目標になった。
こうして、武智さんたち3年生が卒業して、僕らは最高学年3年生になった。英児の名声に憧れ、多くの新入部員が入ってきた。その多くは練習に耐えかねて辞めていってしまうのだが、それくらい当時の日吉南は厳しい練習をしていた。ただし、顧問の谷本先生の方針から、無意味なシゴキなどは一切なかった。
渉さんはK大学経済学部へ進学し、やはり野球部に入部した。さすがに1年からレギュラーとはいかなかったが、2年生でセカンドのポジションをほぼ手中にしていた。下級生で雑用も多く、さすがに葉山の合宿には顔を見せなくなっていた。花笑さんはプロのライセンスを取得すべく、アメリカのテニスアカデミーへ留学していった。