第二章 自己心理学から見た各支の意味

生(jati)における二つの意味

生については、苦の原因としての生(生まれ)と、苦としての生(生きること)の二つの意味があると思われます。宮下晴輝(みやしたはるき)氏の『倶舎論(くしゃろん)における誕生と死についての考察』の中に、十二支縁起の生(jati)についての記述があります。

『比丘たちよ、生(jati)とはいかなるものか。それぞれの衆生(しゅじょう)には、それぞれの衆生の種類における、生まれ、誕生、趣入、現起、諸蘊の出現、諸処の獲得がある。比丘たちよ、これが生であると言われる。』(サンユッタ・ニカーヤ 12、2)

ここでの「生まれ」「誕生」は、生まれることそのものを表し、「趣入」「現起」は誕生する世界(物語世界)に関して用いられる表現とされます。「諸蘊の出現」「諸処の獲得」は、諸法の説明における解説と考えられます。

ここで注目すべきは、「諸蘊の出現」という言葉であります。

諸蘊を諸法(五蘊)ととらえれば、「諸蘊の出現」は五蘊への執着(五取蘊)から起こる「自我の出現」を意味します。つまり、生(jati)は、「自我の出現」を意味していると解釈することができます。

生は「自我の生まれ」、「無明の生まれ」を意味していると考えられ、十二支縁起の初めに語られる「生まれることによって老死がある」という表現は、「自我(無明)が生まれることによって老死苦がある」ということを語ったものと解釈することができます。