次に、生が苦と解釈される場合を考えてみます。

まず唐井隆徳(からいたかのり)氏の「初期経典における縁起説の展開」から、「生と老」が苦であるとされる用例を見てみます。

『このように住し、自覚し、怠けない比丘は、実践しつつ、わがものとすることを捨てて、この世で智者として、生と老、憂いと悲しみという苦を捨てるだろう。』(スッタニパータ 1056)

さらに、生が「生まれる瞬間」を表すのではなく、「生まれを起点とする生存」生涯を表している用例を見てみます。

『私は夜の初更(しょこう)に、以前の生まれに従って思い起こした。』(テーラガーター 627)

初更は、午後7時から9時頃を指します。ここでの「以前の生まれ」は、他の韻文資料では「以前の生涯」を表現しているとされます。

つまり、ここでの生まれは、「生まれを起点とする生存」「生き始めてからこれまでの生涯」「生きるという人生のプロセス」を意味しています。

一般に「生」が苦であると解釈できるものとしては、苦諦で「生・老・病・死」は苦であると語られていることが挙げられます。

『比丘たちよ、実に《これ》が苦しみなる聖なる真理である。生も苦しみであり、老いも苦しみであり、病も苦しみであり、死も苦しみである。愁・悲・苦・憂・悩も苦しみである。』(サンユッタ・ニカーヤ 56、11)

これらのことから、十二支縁起の一支分としての「生」は、「生まれること」ではなく、「生きることの苦悩」(生苦)を意味したものと理解できます。

よって、十二支縁起の説明における「生」は、死苦の原因としての「自我(無明)の生まれ」を意味し、十二支縁起の一支分としての「生」は、生まれてから死ぬまでの「人生における苦」(生苦)を意味していると理解できます。