第二章 自己心理学から見た各支の意味
「生まれること」という「生」の意味について
これらのことから、「迷いの生存」とは、「五蘊に束縛された存在」または「五蘊によって存在すると錯覚される自我」のことを意味していると受け取れます。
つまり「迷いの生存」とは、迷い=無知(無明)が生まれた存在のこと、現代的に言い換えれば、「迷いの状態にある人」「自我が生まれた人」「自我に目覚めた人」を意味する言葉と考えられます。
まだ「自我が生まれていない人」の場合には、「ただの存在」でありますが、すでに「自我が生まれた人」の場合は、「自我にとらわれている存在」となり、「迷いが生まれた存在」、「迷いの生存」といえます。
『わたしは、この生(うまれ)を構成する五つの要素(五蘊)について、このように、その味わいはこれこれであり、その禍 (わざわい) はこれこれであり、またそれから脱出する道はこれこれであるとあるがままに知るにいたった。
……わが心の解脱は不動である。これがわが最後の生(うまれ)であって、もはや迷いの生(うまれ)を繰り返すことはないであろう。』(サンユッタ・ニカーヤ 22、26)
『全く情欲を離れた人は、{われはこれである}と観ずることがないので、このように解脱して、……再び(迷いのうちに)生まれることがない。』(ウダーナヴァルガ 27章28)
「サンユッタ・ニカーヤ 22-59 五比丘」において、「五蘊を嫌って離れるものは、欲望から離れ、解脱する」と語ったあとに、「滅尽したのは生まれることである。完成したのは清浄036行である」と続きます。
つまり、五蘊への執着(自我を構成する五つの要素への執着)を離れて「生まれること」が無くなるとは、「自我の再生」が無くなることを意味しています。
仏教用語の生(しょう)「生まれること」は、パーリ語のjati(ジャーティ)に由来しています。