そうしたことからも、何かの価値判断をするときに「役に立つか/立たないか」だけで考えることには慎重であるべきだと考えます。「役に立つか/立たないか」という価値観も教育上必要ですが、それに偏かたよると、多面的・多角的な思考がなされなくなってしまいます。そうした視点からも、教育の意義や役割を捉え直すことが求められているのではないでしょうか。
一頃、中学校数学の教科書で、二次関数の「解の公式」が扱われなかった時期がありました4。「自分はこれまでの生活の中で使ったことがない」という立場からの判断だったそうですが、その次の学習指導要領改訂5は「解の公式」が復活しました。
日常生活で使わないとはいえ、さすがに「解の公式」といういわば「鍵(キー)となる概念」を欠いてしまうと、「数学を体系的に扱うことができない」という教授上の反省もあったのでしょう。
実際、数学の歴史においては、「解の存在」や「解を求めるための公式の存在」について考え続けることで、関数の分野が発展してきた経緯があります。筆者(森)はこの「解の公式」がない時期に中学校理科の教員でしたが、同僚の数学教師は「生徒に考えさせようと思ってもその材料が乏しい」と嘆いていました。
ここで重要なことは、「数学を体系的に扱うことが難しくなった」という、「学問」的な見地からの批判よりは、そもそも数学教育の根幹ともいえる「計算を支えている数理世界の秩序をより深く理解していくという、より知的で、より重要な教育目標」6と整合していないことであったといえます。
目標としている「論理的に考える力を養う」ことと「生活の中で使ったことがあるかどうか」ということは、本来「どちらを重視するか」という対立の関係にはありません。しかし、前述のように「役に立つか/立たないか」という価値観が強く意識されてしまったのでしょう7。