他方、知行地に対し、藩主が直接統治する土地を「入蔵地(くらいりち)」と称し、こちらは代官から村長格の百姓である「肝煎」を通じて百姓衆を支配下に置き、藩主の収入源たる年貢を徴収している。

この地方知行制、伊達家・仙台藩では、明治維新後の版籍奉還(明治二年=一八六九年)の際に、制度として廃止されるまで続いている。

この物語では、この地方知行制が、登場するほぼ全ての武士の身分形成や暮らしぶりに多大な影響を与えており、物語の進行にあたり、この制度が頻出するため、読者諸兄のご理解をお願いしたい。

さて信氏は、故地の葛西旧領に帰還することを望んでいたが、あてがわれたこの「志田郡宮内村」は、信氏の意に反して大崎旧領であった。

片倉小十郎景綱は、葛西旧領の知行が実現しなかったことを信氏に詫びたが、小十郎に厚い恩義を感じていた信氏にとって、もはやそこは拘るところではなかった。

この宮内村知行地は、後世「大崎耕土」と美称される大変肥沃な土地であり、二十一世紀の現代もなお、広大な美田が広がる地である。だがこの時、御多分に漏れず、葛西大崎一揆の後遺症で田畑はひどく荒廃していた。

知行地に隣接する「師山城(もろやまじょう)」が、一揆勢の大崎旧臣が立て籠もる拠点となり、鎮圧に向かった伊達勢の激しい攻撃に晒されたことから、田畑が双方の軍勢にひどく踏み荒らされてしまった。

もはや耕作は叶わぬと、絶望のどん底に突き落とされた百姓衆の多くが、土地を捨てて逃散してしまったのである。

「覚悟して参ったとは申せ、これはひどい有り様じゃ……」

「父上、一体どこから手を付けて良いものやら……」

「旦那様、この有り様で我らの暮らし、成り立ちましょうや……」

信氏親子は、長く離散し、相次ぐ戦乱を搔(か)い潜(くぐ)りながら生き延びてきた葛西家時代からの使用人らを呼び寄せ、宮内村へ足を踏み入れたが、眼前に広がるあまりの惨状に、一同皆途方に暮れてしまった。

村にあった元の侍屋敷や百姓家は、戦乱のさなか、火を放たれことごとく焼け落ちており、彼らの最初の仕事は、住む場所の確保となった。耕作放棄された田畑の荒れ様は、少し土を掘れば、武具の欠片や軍馬の骨、時には人骨までもが現れるほどであった。
 

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