第一章 忠と義と誉と 文禄五年(一五九六)~正保二年(一六四五)
仕官
この指月の伏見城は即刻放棄され、間髪を置かず北東の「木幡山(こはたやま)」へ城は移動。城下町も一からの再建を余儀なくされた。太閤の圧迫に苦心していた、政宗、小十郎ら屋敷詰めの伊達家関係者は、さらなる苦難にあえぐこととなる。
この巨大地震をきっかけに、一〇月に元号が「慶長」に改元されたが、その後も日本各地で、大規模地震が度々発生している。
領国で新たな役目に就いた信氏・氏定親子は、どのような思いで、伏見の惨状の報を受け取ったであろうか。
大崎旧領へ 慶長一〇年(一六〇五)──。
葛西旧臣・伊藤肥後信氏が伊達家に仕え始めて、約十年の歳月が流れた。
の約十年前、伏見伊達屋敷で、主従の証として信氏が受領した、伊達政宗からの「知行宛行状」はこのとおりである。
志田郡宮内村 (しだぐんみやうちむら)、都合廿貫文 (にじゅうかんもん)(目録等別紙)全て領知(りょうち)す可(べ)き者也(ものなり)、仍(よっ)て件(くだん)の如(ごと)し。
文禄五年○月○日 大崎少将(おおさきしょうしょう)政宗(花押)伊藤肥後とのへ
大崎少将政宗とは、当時の伊達政宗の名乗りで、信氏に対し「知行地(ちぎょうち)」として、伊達家領内の志田郡宮内村(今の宮城県大崎市古川宮内)に二十貫文(二百石)の領地を与えるという内容である。
また信氏は、これと同時に「物頭役」、いわゆる足軽頭に任ぜられ、武家身分は「平士(へいし)」となった。
平士の家格は、伊達家の武家身分では下から三番目。中・下級武士の位置づけとなるが、その人数は伊達家に仕える武士の一割強を占め、「頭(かしら)」、すなわち各種役職の長を務め、家中を下支えする家臣団の主力である。
ここで、伊達家・仙台藩の主従関係と、土地支配の構造について述べておきたい。伊達家は家臣を召し抱える場合、俸禄を金銭ではなく土地で与える「地方知行制(じかたちぎょうせい)」を採っていた(図を参照)。
藩主から与えられた土地は「知行地」と称し、ここで家臣は村落の自治を主導し、独自の年貢徴収の権利を与えられ、これを収入源としている。
また家臣は、城などに参勤して藩主の下での役勤め(奉公)にあたるとともに、家臣が直接、または土地管理者たる「地肝煎(じきもいり)」を介して知行地の耕作管理、年貢の徴収を行う、すなわち「半農・半武士」の二重生活が基本である。
生活の便のため、藩主の居城下に構えた屋敷(町屋敷)と、知行地に構えた屋敷(在郷屋敷)両方を有していることも多い。