第一章 忠と義と誉と
文禄五年(一五九六)~正保二年(一六四五)
大崎旧領へ
しかし信氏親子らは、こうした逆境に怯むことはなかった。かつての一家離散、諸国を彷徨 (さまよ)い自害も考えた地獄の如き日々。それらに比べれば、たとえ荒れた田畑だろうと、今ここに、確実に生活を営める地を与えられているのだ。
以後、使用人や足軽衆、新たに入植した百姓衆らとともに、懸命に田畑の復旧に努め、信氏も連日、自ら鍬を握り続けた。その努力の甲斐あって、田畑はこの十年の間に目覚ましい回復を見せ、米の収量も年々増えていった。
また、ようやく生活が落ち着いてきたところで、息子の氏定が嫁を娶り、やがて嫡男にして信氏の初孫・満蔵が誕生している。
一方、登米郡や桃生郡など葛西旧領の田畑も、再び入植した、かつての信氏の同志である葛西旧臣・百姓ら、あるいは新たにやってきた伊達家の者たちの努力の甲斐あって復旧が進み、この地をこよなく愛してきた信氏にとって、それは何よりも喜ばしいことであった。
──葛西の御屋形様、ようやく我らが田畑、元に戻りましてございます……。
──小十郎様、このご恩決して忘れませぬ……。
亡き旧主・葛西晴信 (はるのぶ)と、恩人・片倉小十郎景綱に向けて、信氏は田畑の向こうの空を仰ぎながら、噛み締めるようにつぶやいた。
信氏が仰ぐ空の向こうには、旧くから権現信仰で人々の崇敬を集める秀峰「船形山」がそびえ、その峰々は人々の田畑の営みを見守り続けている。
この時代の、知行地持ちの家臣の例に漏れず、信氏も基本は「半農・半武士」生活であり、時折、城へ参勤していた。
当初は知行地から四里ほど離れた主君・伊達政宗の本拠「岩出山(いわでやま)城」への参勤だったが、数年後には、本拠が新設の「仙台城」に移った。
政宗に謀反の疑いをかけ続けた豊臣秀吉が没し、慶長五年(一六〇〇)、内府・徳川家康から命を受けた上杉景勝征討(慶長出羽合戦)を機に、政宗はようやく所領へ帰還。