【前回の記事を読む】「もはやこれまで。殿…今わたくしも参ります」――大坂夏の陣、轟音が響く大坂城内。我が子をかかえて震えていると、夫の凶報が…

第一章 忠と義と誉と 
文禄五年(一五九六)~正保二年(一六四五)

敵方を味方に

彼らの父・長宗我部元親は、戦に明け暮れた若き日から一転、豊臣秀吉の治世下では、安堵された所領の土佐を平らかな地にしようと、領国経営にまい進したが、慶長四年(一五九九)、秀吉のあとを追うようにこの世を去っていった。

早くもその翌年、元親の見立てどおり、戦の世が再び訪れた。家を継いだ盛親は、関ヶ原で西軍に加勢したが、彼が率いた六千六百の軍勢は、眼前の吉川広家勢の寝返りにより、身動きを取れず釘付けにされ、武勲一つ挙げられず敗れ去った。果ては父から継いだ土佐一国を失うという、武将として最大の屈辱を味わうこととなった。

浪人として野に下った盛親は、しばらくは恥を忍び、御家再興が第一と、徳川将軍家に再興願を申し入れ続けたが、家康・秀忠親子はついに一顧だにしなかった。

もはや徳川は家の敵、今度こそ関ヶ原の雪辱を果たさんと、かつての家臣らとともに大坂方に加勢したが、事ここに至り、盛親は「もはやこれまで」と、敗色濃厚であることを悟った。妹と別れ、大坂城から再び出撃した盛親がその後、どこへ消えたのか。行方は誰も分からなかった。

一方、大坂城を脱出した阿古と二人の幼子(おさなご)、わずかな供回りの者は、弾丸が飛び交い硝煙けぶる空の下、盛親の指示どおり、はるか遠くに見える「釣鐘の馬印」目指し、紀州街道を走りに走った。