気分新たに、新たな城で、自ら陣頭指揮を執っての国造りを始め、領内はにわかに活気づいてきた。一時出奔していた政宗の側近・伊達安房守成実、茂庭左衛門綱元の両名も、すでに帰参を果たしており、再び政宗の両腕として、活発に動き回っている。
ただ、宮内村から仙台城へは十里ほど。信氏の参勤はかなり大変なものとなり、城勤め中の寝泊まりの場として、仙台城下に新たに小さな屋敷を構える必要があった。
片倉小十郎景綱とは、身分の違いや互いの忙しさもあり、その後の目通りは叶っていないが、頻繁に文を交わしている。
信氏は小十郎に、自身の知行地の近況や作物の取れ高、葛西大崎旧領の現状などを事細かに報告し、それは小十郎にとっても、領国経営に役立つ重要な情報をもたらすものであった。
小十郎から届く文には、信氏への労(ねぎら)いの言葉が欠けることはなかった。自分のような下々の侍でも相手をしてくれ、細やかな心配りをしてくれる。そんな小十郎の懐の深さや慈悲深さが、文ににじみ出ていた。
一方で、嫡男の左衛門(のちの片倉小十郎重綱)への苦言や愚痴も、時折したためられていた。
「肥後殿は立派な嫡男を持たれた。比して我が倅は……」。
左衛門は主君・伊達政宗の近習となり、政宗や重臣らが、才知に富む左衛門の将来に、大いに期待を寄せているという噂が広まっているだけに、意外に思われた。
「小十郎様は慈悲深いお方だが、御自身や御身内には、殊のほか厳しいお方でもあるのだ」
「かように心根を書きつけられるのは、小十郎様の信頼の証。有難きことよ」。
信氏はそう理解した。
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