私にとって「濫觴同人」は、どちらかというと文学部を中心とするメンバーで、雑誌を通して表現活動をする場でもあった。この同人誌の「趣意書」には、「言語化して表現することにより問題意識や疑念をさらにはっきりさせ、深化あるいは内在化していくならこの雑誌の初頭の意図は達成されたものと信ずる」と書いてあった。
「30番台教室自主使用」が始まって間もなく、文学部で同人の佐々木雅男君にこの間の状況を説明した。すると、彼は「まず30番台に入ってみないと何も始まらない」という見解であった。そこで、他のメンバーの文学部の寅野滋君、工学部の金森敬君と4人全員で集まって、この件について話し合った。その結果、私たちが「30番台教室」に入ることに意見が全員一致した。
そこで、「サークル協議会」に行って話をつけて、空いているサークル部室を用意してもらった。これが私たちにとっての、新しい1ページの始まりであった。これまでのごく日常的なサークル活動と、クラスの仲間との、入学してからほとんど皆勤のコンパなどを通しての日常性からの大いなる転機ともなった。
「サークル協議会」による「30番台教室」自主使用
「サークル協議会」と大学当局との「教養部恒久サークル棟」の建設と「30番台教室」の使用を求める交渉は、この2、3年すっかり膠着(こうちゃく)状態となり、双方とも鋭く対立していた。
このような状況の中で、「サークル協議会」は、1975年6月17日のサークル協議会総会で次のような新たな提案を行い、決議された。「『1サークル1部室』の原則に基づき、部室のないサークルを中心として30番台教室自主使用を開始する」
この方針により、自主使用を開始する4日前の6月19日に招集された「部室のないサークル連絡会議」で、「30番台教室自主使用」を行うことを再確認した。また、6月21日には「サークル協議会」の求めにより、サークルの代表者だけでなく、「全サークル員会議」が行われ、この方針が再度全体で確認された。