その1 始まり
サークル部室問題のこれまでの経過
ここで、「サークル協議会」による「30番台教室自主使用」までの経過を見てみよう。そのためには、まず、東北大学の長年にわたる懸案となっていた「大学キャンパスの移転計画」を見る必要がある。
1965年に、東北大学「川内・青葉山総合移転計画」が発表された。ところが、この移転計画の中には、サークル棟に関する具体的な計画は何も含まれておらず、現在使用中の木造の第1、第2サークル棟は取り壊されることになっていた。そして、移転先と予定されている「30番台教室」は、仙台市の市道の通過予定地となっていたのである。
この「川内・青葉山総合移転計画」が、「サークル協議会」を中心とした学生の求める「1サークル1部室」「教養部恒久サークル棟」の実現に、さまざまな影響を及ぼすことになる。この間の大学側と学生側の何度もの交渉については、この後でもっと詳しく歴史的な経過をたどることにする。
1970年に、東北大学では、大学改革を進めるために、評議会内に大学改革の理念と方向性を検討する「第一改革委員会」(通称「一革委」)と、大学の管理運営を検討する「第二改革委員会」(通称「二革委」)が設置された。
1974年3月に、「第一改革委員会」が評議会に「東北大学の編成及び研究教育体制の改革に関する答申」(通称「一革答申」)を提出した。
これは、「教養部恒久サークル棟」の実現性に決定的な影響を与えることになるのである。というのも、この「一革答申」には、教養部を廃止し、講座制をとることなどが主な方向性として盛り込まれていたからである。
もし、将来的に教養部が廃止されるならば、「教養部恒久サークル棟」を建設する理由はなくなる。ただし、この答申が出されたものの、教養部廃止についての東北大学内での検討は始まったばかりであった。とはいえ、全学的にこの方向に向かいつつあり、しかも、これまで教養部の教官は、研究条件などで学部の教官と比較して肩身の狭い思いをしていた。
この全学的な教養部廃止の流れの中に、「教養部恒久サークル棟」の建設計画も飲み込まれようとしていた。そこに、大学当局の1969年当時から現在に至るまでの姿勢の変化も反映されていた。
それでは、まず「教養部恒久サークル棟」問題の始まりである「佐川確約」について見ていこう。